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“駿府” 静岡市の歴史

駆け足で見る駿府

 明治時代になって「静岡」と改称されるまでの約1200年間、 “駿府” は駿河国の中心都市として栄えてきた。明治以降は周辺の町村も編入され、2003年には、同じく周辺の町村が編入されて発展してきた清水市とひとつとなって、新しい静岡市が誕生。さらに蒲原町、由比町が編入されて現在に至る。面積1400平方km、人口70万人を擁する政令指定都市であり静岡県の県庁所在地。単に「しずおか」と言うとき、静岡県外の人は「県」を指すことが多いが、県内では「静岡市」を指す。そのように混同されるためか、この歴史と格式ある “駿府” 静岡市は、明治以降次第に語られる機会が少なくなっていったようだ。
 気候が温暖で晴天率も高く、風も穏やかで平野部では雪の積もることもない。水も豊かでおいしく、富士山の絶景にも恵まれる。

駿府城公園櫓門

フォトツアー

「駿府」というのは、「駿河国府中(するがのくにふちゅう)」の略。今の静岡市に「国府」が置かれ、駿河の国の中心地となったのは飛鳥時代。
現在の静岡県中部・東部は、「廬原国(いおはらのくに)」と「珠流河国(するがのくに)」と呼ばれていた。このころ、今の静岡市は廬原国で、珠流河国は廬原国の東隣。
飛鳥時代、「珠流河国」と「廬原国」が合併して「駿河国」になったといわれている。そのころの国府はまだ今の沼津市あたり。
西暦700年前後、国府が今の静岡市へ移り、伊豆国が分割された。それから明治4年(1871年)の「廃藩置県」まで1200年近くの間、今の静岡市は「駿府」として栄えてきた。
室町時代から戦国時代まで、駿府は今川氏の城下町となった。特に戦国時代には、京都から身分の高い人々が駿府に移り住み、戦国三大文化のひとつ「今川文化」を生んだ。そのころ今川氏の人質として駿府で幼少期を過ごしたのが、三河の岡崎城で生まれた松平氏の竹千代君、後の徳川家康公だ。写真は静岡駅北口にある竹千代君像。
徳川家康公は8歳から19歳まで、今でいえば小、中、高の成長期を駿府で過ごした。写真は臨済寺に残る「竹千代手習いの間」(駿府城巽櫓=たつみやぐらにあるレプリカ)。清水区興津(おきつ)の清見寺(せいけんじ)にも家康公ゆかりの部屋などが展示されている。
今川義元が桶狭間の戦いに敗れてからは、武田信玄による焼き討ちにあったが、息子の武田勝頼が駿府の有力商人に駿府の復興を命じた。その後家康公は、「駿府九十六か町」と呼ばれた最新の城下町を整備し始め、東海道五十三次で最大の都市、駿府の都を作り上げた。また、駿府城を城郭史上最大の天守台とするほどの大修築を行なった。
江戸の人口が14万人といわれた江戸時代初期、駿府には10万から12万の人口があったという。江戸と並ぶほどの大都市であり、政治でも外交でも事実上日本の首都として世界から注目された。

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