大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

瀬名地区方面

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瀬名館と瀬名姫誕生地(家康公の正室となった瀬名姫)

瀬名館想像図〔水野 茂作図〕瀬名氏3代目の氏俊(うじとし)の弟氏広(うじひろ)は、今川氏の重臣である関口氏の養子として関口刑部親永(せきぐちひょうぶちかなが)と名乗り、今川義元の妹を妻として持舟(用宗)城主となった。氏広が持舟城主に抜擢される前は瀬名館に住み、ここで女子が誕生した。瀬名館で誕生したことから瀬名姫と呼ばれ、後の家康公の正妻となった美人の誉れ高い「築山御前」である。彼女は今川・徳川・織田の戦国乱世の運命に翻弄された悲劇の築山御前でもある。家康公と築山御前の間に生まれた信康の元には、政略結婚のため織田信長の娘(徳姫)が嫁いできた。 ところが徳姫が父織田信長に宛てた手紙に、家康公の正室である築山御前が武田と通じていたと告げたことから大事件が発生する。信康と築山御前が、織田信長の命によって処罰させられたのだ。しかし、事件の真相は不明である。

信康は遠州二俣城で自害した。不思議なことに「瀬名氏」の先祖は、今川貞世(いまがわさだよ)(後に了俊(りょうしゅん))で、晩年の一時期に瀬名に住んだことが「瀬名氏系図」に記されている。その5代後の瀬名一秀は、今川氏親(義元の父)の後見人として二俣城から移り住み、正式にここで瀬名氏を名乗った。歴史とは不思議な因縁でつながっているものである。(「長尾川ふるさと昔ばなし」)
注:瀬名館跡の実態は存在しない

家康公と瀬名・水梨の渡邉家(藪大尽(やぶだいじん))

家康公が瀬名で鷹狩りの時、喉が渇いたため家来に水を命じた。その時に近くに居合わせた源右衛門の妻が、畑から採ってきた梨を水代わりに差し出した。これを食べた家康公は、とても美味しかったことからこの土地を「水梨」と呼ばせたという。そこが現在の葵区瀬名四丁目である。

源右衛門は体が不自由なため、家康は「お前が歩いただけの土地を与えてやるから歩けるだけ歩け」と言うと、源右衛門は歩けるだけ歩いて数町歩の土地を手に入れたという。家康公は証拠として、葵の紋の茶釜一個と槍を与えたという。こうして源右衛門は「藪大尽」(水梨の大屋)と言われて大地主になった。源右衛門には、渡邉の苗字が与えられ現在も続いている旧家だ。

長尾川の鮎と家康公の水泳

慶長の頃から長尾川付近では、鮎を捕らえる漁業の許可を代官所に申請した。それから長尾川の鮎漁は、幕末まで長尾川付近で許可されていたという。許可の代償として、関係者は領主滝脇丹後守(たきわきたんごかみ)へ毎年銀18匁(もんめ)を鮎の運上(税金)として支払い、平山より瀬名までの鮎を独占していたという(「西奈村史」)。また家康公は、この川で遊泳を楽しんだといわれている。

切石(御紋石)と幕ヶ谷の権現神社

残念石 (葵区瀬名3丁目長尾川左岸)長尾川左岸に切石がある。これは駿府城築城のために運ばれたが、途中で落としてしまった石という。落とした石は落城につながることから、縁起をかついで使用されることなく現場に放置されている。城の石垣にそのまま積める大きさで、長さ1メートル、高さ80センチの長方形の石である。

伝承によるとこの石は、大谷津の大沢から切り出したものと言われている。元々は川底に埋もれていたが、昭和51年に川の改修工事で発見され、現在の場所に据えられたものである。この様に長尾川の奥の北沼上小学校と、地内の岩科家の庭にも刻印が刻まれた石がある。

地内の幕ケ谷の山崎家は、家康公の鷹狩りの御案内役を務めた家といわれ、地元の権現神社横にも刻印を刻んだ石が現存している。駿府城築城のために、大量の石が駿府周辺から集められていたことがわかる出来事である。

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