徳川家康ゆかりの【駿府城】が“実はスゴい城”である理由と見どころを日本城郭検定1級所持者が解説!

「お城がないから大したことない」——駿府城にそんな印象を持っていませんか?

徳川家康が将軍職を譲って大御所となった後、自ら駿府に拠点を置くことを選び、居城として築いたのが駿府城です。


近年の発掘や新史料の発見によって、その価値が次々と見直されています。


この記事では、日本城郭検定1級取得者の視点から「なぜ駿府城はスゴいのか」と駿府城の見どころを解説します。

徳川家康ゆかりの【駿府城】が“実はスゴい城”である理由と見どころを日本城郭検定1級所持者が解説!

駿府城のここがスゴイ①「大御所の居城として築かれた城」

 なぜ大御所となった家康は駿府を選んだのか


家康は幼少期の人質時代、五カ国領主時代、そして大御所時代と、人生の約3分の1にあたる25年を駿府で過ごしました。


将軍職を秀忠に譲った後、あえて駿府に戻ったのは、ここが単なる大御所政治の拠点ではなく、自らが理想とする居城を築くためでもあったと私は考えます。


温暖な気候、豊かな水、そして今川の親戚として大切に育てられた人質時代の記憶。駿府は、家康にとって特別な場所だったといえるでしょう。

駿府城には大御所・家康らしい特別な施設があった

昨年、山梨県内で姫路藩主酒井家に伝来した『駿府御城内絵図』が発見され、大きな話題となりました。


この城絵図からは、通常の城にはあまり見られない施設の存在もわかってきました。

二ノ丸には薬草園と考えられる「御花畑樹木屋敷」、三ノ丸には「御鷹部屋屋敷」の記載が確認されたのです。


これは、駿府城が大御所・家康のライフスタイルを色濃く反映させた城であったことを示していると私は考えます 。

「静岡市歴史博物館所蔵」
「静岡市歴史博物館所蔵」

御鷹部屋屋敷|趣味ではなく“軍事と健康”の施設

「静岡市歴史博物館所蔵」
「静岡市歴史博物館所蔵」
「鷹匠」という地名は、かつて城内の「御鷹部屋」に出入りしていた職人集団の居住区であったことに由来
「鷹匠」という地名は、かつて城内の「御鷹部屋」に出入りしていた職人集団の居住区であったことに由来
本丸跡に立つ大御所時代の鷹狩り姿の徳川家康像
本丸跡に立つ大御所時代の鷹狩り姿の徳川家康像

家康にとって鷹狩りは単なる娯楽ではなく、軍事演習であり健康法でもありました。


『駿府御城内絵図』には三ノ丸北東に「御鷹部屋屋敷」と読める文字があり、ここで鷹の飼育や調教が日常的に行われていた可能性が高いと考えられています 。

家康には「鷹匠」と呼ばれる専門職が数多く仕え、数十羽の鷹を常に最高のコンディションで管理していました 。

城内に専門的な鷹の飼育・訓練施設を設けた例は、三代将軍家光が江戸城内に「鷹坊」を設置した例を除けば、他に類を見ない極めて稀有なものだと思います 。


現在も、左手に鷹を据えた「徳川家康公像」や、かつて鷹匠たちの屋敷街があった「鷹匠」という地名にその名残を見ることができます。

御花畑樹木屋敷|自ら薬を調合した健康オタク・家康

「静岡市歴史博物館所蔵」
「静岡市歴史博物館所蔵」
『紅葉山庭園』の庭園中央には、駿河の国の象徴である富士山を模した立派な築山が配されており、訪れる人の目を楽しませてくれます。
『紅葉山庭園』の庭園中央には、駿河の国の象徴である富士山を模した立派な築山が配されており、訪れる人の目を楽しませてくれます。
「徳川家康公像」の横には家康が自ら植えたとされるミカンの木があります。
「徳川家康公像」の横には家康が自ら植えたとされるミカンの木があります。

家康は自ら薬を調合するほど薬学に熱心でした。三代将軍家光が幼少期に医者もさじを投げる大病を患った際、祖父である家康が自ら調合した薬で完治させたという逸話も残されています。


駿府城内には以前より薬草園があったとされてきました 。『駿府御城内絵図』に記された「御花畑樹木屋敷」は薬草園にあたると考えられ、絵図から「御花畑樹木屋敷」に水道が引かれていたことも見て取れます。


当時の薬草園がそのまま現在の庭園になったわけではありませんが、同じ二ノ丸跡内には四季折々の豊かな植物を楽しめる「紅葉山庭園」が整備されています 。かつてこの城内に、家康の健康を支えた薬草園があったことに思いを馳せながら、散策してみてはいかがでしょうか。 


駿府城のここがスゴイ②「日本最大級の天守台と威容を誇る天守」

「静岡市歴史博物館所蔵」
「静岡市歴史博物館所蔵」

「駿府城にはお城がない」というのは誤解です。多くの人が「お城」と呼ぶ建物は天守であり、天守は城の一部にすぎません。


近年の発掘調査によって、家康が大御所時代に築いた天守台は、江戸城や名古屋城をも上回る日本最大級の規模であったことが判明しました。


また『駿府御城内絵図』によって、駿府城が新たな天守の形式であるとも言える「環立式天守」であったという驚きの事実が浮き彫りになりました。

これまで駿府城を描いた絵図はいくつか存在していましたが、天守台の上に建物がどう配置されていたのかを示す「平面図」がなかったため、謎に包まれたままでした。


姫路城や伊予松山城に代表される「連立式天守」は、天守が櫓などと連結して中庭を囲む形式です。

しかしこの「環立式天守」は、連結された四隅の櫓が形作る輪の中に、天守がそびえ立つという異例な構造でした。

絵図からは天守の入り口の位置や周囲の隅櫓や多門櫓を通って天守に入る導線も判明しています。


日本最大級の天守台と既存の類型には当てはまらないこの独自の天守形式は、まさに大御所の居城にふさわしい、唯一無二の威信を象徴していると言えるでしょう。 

発掘調査現場で“日本最大級”を体感する

手前に見えている石垣は慶長期天守台の北面です。
手前に見えている石垣は慶長期天守台の北面です。
慶長期の天守台石垣の内側から家康が最初に築いたとされる天正期の天守台の石垣が見つかっています。
慶長期の天守台石垣の内側から家康が最初に築いたとされる天正期の天守台の石垣が見つかっています。
ポールは約12mだったとされる慶長期の天守台の高さを示しています。
ポールは約12mだったとされる慶長期の天守台の高さを示しています。

駿府城天守台野外展示施設の建設工事に伴い、現在は公開を停止していますが、発掘調査現場を囲むフェンスの一部が透明になっているので、その圧倒的な遺構を見ることができます。


視線の先に広がる重厚な石垣こそが、家康が大御所時代に築いた「慶長期」の天守台です。 

天守台の高さを示すポールも立てられているので、大きさをイメージしやすくなっています。

天守が現存しなくても、天守台やポールを見るだけで「この城は規格外だ」と実感できると思います。


ちなみに慶長期の天守は、慶長12年(1607)に建てられたものの、同年に火災で焼失。

直ちに再建され、慶長15年(1610)に完成しますが、寛永12年(1635)に再び火災により焼失し、以降再建されず、この広大な天守台だけがかつての栄華を今に伝え続けています。 

駿府城のここがスゴイ③「天下普請で作られた」

「天下普請」とは?

駿府城は60以上の大名を動員した「天下普請」で築かれました。

「天下普請」とは、江戸幕府が全国の諸大名に対して、城や河川、道路などの大規模な土木工事を命令し、大名側の負担(費用・労力)で行わせた国家的なプロジェクトのようなものです。


日本には数万の城があったと言われていますが、徳川幕府が天下普請として諸大名に命じて築かせた城は13城。総数から見ると非常に珍しいです。


当時の最先端技術を持つ石垣職人集団(穴太衆など)や、腕利きの職人が全国から集められました。そのため、石垣の積み方、堀の深さ、建物の美しさすべてが、当時の最高レベルのクオリティで完成した「究極の城」なのです。 

石垣の刻印|天下普請の証を探す

石垣をよくよくみるとこのような刻印がみつかるかも!?
石垣をよくよくみるとこのような刻印がみつかるかも!?
串団子のようにみえる刻印
串団子のようにみえる刻印
駿府城公園の園内に置かれている石にも、刻印が刻まれていることがあります。
駿府城公園の園内に置かれている石にも、刻印が刻まれていることがあります。
富士山のように見えるので気に入っている刻印
富士山のように見えるので気に入っている刻印

駿府城の石垣を注意深く観察すると、表面にさまざまな紋様が刻まれていることに気づきます。

これは「刻印」と呼ばれるもので、工事を請け負った大名や石工集団が、自らの担当箇所を明確にしたり、運搬した石材の所有権を主張したりするために刻んだ「天下普請」の生々しい証拠です。


発掘などの際に「打ち出の小槌」や「星形」といったユニークな形の刻印も見つかっています。刻印を探し歩くのも駿府城散策の大きな醍醐味です。

駿府城のスゴさを感じるなら「葵舟」がおすすめ

2021年に運航を開始した「葵舟」は、駿府城のお堀を巡る観光遊覧船です。

船頭さんの解説を聞きながら、歴史あるお堀をゆったりと進む時間は格別。

基本的には土日祝に運航していますが、季節限定の「お花見舟」や「夕涼み舟」、さらには静岡らしい「おでん舟」などの特別企画も随時開催されています。 

水上から見る石垣と刻印

葵舟なら歩いている時よりもはるかに低い、水面に近い視点から石垣を観察できます。


見上げるほどに高く積み上げられた石垣は、水上から見るとその威圧感と精巧さがより際立ちます。


葵舟からしか見つけられない「刻印」もあるかもしれません。

水堀と輪郭式平城の構造がわかる

駿府城は、本丸を二ノ丸、三ノ丸が同心円状に囲む「輪郭式」という縄張りになっています。

葵舟が運航するのは、二ノ丸堀と呼ばれる二ノ丸と三ノ丸を隔てる水堀です。


実際に葵舟に乗って水上を進むと、想像以上に水堀の幅が広いことに驚かされます。

この圧倒的な距離を体感することで、水堀が単なる景観を整えるためのものではなく、敵の侵入を徹底的に阻むための「軍事的な防御施設」であったことが身をもって理解できるはずです。

仕掛けも楽しい

葵舟の体験をさらに盛り上げるのが、低い橋をくぐり抜ける際のアトラクションのような仕掛けです。


水路に架かる低い橋の下を通過する際、船の屋根がガクンと下げられるようになっており、乗客は思わず身をかがめるスリルを味わえます。

まとめ|駿府城は「知ってから行く」と何倍も面白い!

駿府城は、単に徳川家康ゆかりの地であるというだけではありません。


大御所の居城としての格式、日本最大級を誇る天守台、諸大名の力を集結させた「天下普請」による築城、そして御鷹部屋屋敷や御花畑樹木屋敷といった家康公の日常が垣間見える施設まで――

これほどまでに特別な要素が重層的に積み重なった城は、全国を見渡しても極めて稀です。

こうした背景を知ると、お城は知識があるほど楽しめるものだと実感できるのではないでしょうか。


この記事を読んで、「昔お城があった公園」だった駿府城が少し違って見えてきたかもしれません。


今回の解説で「見どころが分かってきた」「ちょっと興味がわいた」と感じていただけたなら、ぜひ実際に訪れてみてください。

ライター紹介:松木 智美

静岡生まれ。

お茶、みかん、さくらももこ、海鮮など静岡に関するものが好きで、特に徳川家康公が大好き。


お城・史跡めぐりが趣味で、日本城郭検定1級取得、日本100名城、続日本100名城を制覇しており、色んな場所をめぐりながら城郭の魅力を発信しています。


静岡市にこんな魅力的なスポットがあったんだ!と思ってもらえるように皆さんにご紹介していけたらと思っています。よろしくお願いします!

ライター紹介:松木 智美

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