えっ?!竹千代は人質で駿府に来たんじゃなかったの?

こども時代の家康公は、竹千代と呼ばれていましたね。その竹千代は、三歳の時にお母さん(於大さん)がお父さんの広忠と離婚しています。理由は、お母さんの実家(水野家)が松平家を裏切ったため岡崎城に居られなくなり、やむをえず離婚しました。本心ではなかったのです。続いてお父さんは、竹千代が8歳の時に家来に殺されます。父も母もいない竹千代は、「戦国の孤児」とまで言われ、戦乱の世の中に放り出されたのです。そのため竹千代は、隣の国で力のあった今川義元の駿府に預けられることになります。

そのとき竹千代は6歳でした。今川義元の駿府に預けられるため、家臣の戸田宗光が駿府に送る役目でした。ところがその家来にだまされて竹千代は、今川の敵であった織田家の人質として売り飛ばされたのです。だました戸田宗光は、竹千代を千貫文というお金で織田信秀(信長のお父さん)に売り飛ばしたのです。千貫文とは今の金額にするとどのくらいになるのでしょうか?調べてみて下さい。

織田家の人質として名古屋に送られた竹千代は、8歳になるまで名古屋で過ごします。この間に竹千代は、後に活躍する織田信長と知り合いになったのです。この二人の出会いが後の竹千代の生き方に大きく影響することになります。ところが怒った今川義元は、織田家から竹千代を奪い取り、今川家で保護することにしました。こうして8歳の時に竹千代は、駿府つまり静岡に送られて来たのです。

この時代は京都が荒れ果て、今川義元の駿府のほうが繁栄していました。そんな今川家は経済力もあり、京都の公家さんたちの生活を援助していました。そのため今川の駿府は、「東国の京都」と呼ばれて繁栄していたのです。

世間では今川家に預けられた竹千代を、単純に人質と思っている人が多いようですが、最近の研究では、その考え方が大きく異なってきました。つまり座敷牢に閉じこめられたイメージとは程遠く、竹千代の身辺には岡崎から来た同世代の仲間が遊び友達として同行し、竹千代の身辺の世話をするためお婆ちゃんの源応尼が親代わりとなって、駿府で竹千代の面倒を見ていたのです。ふつうに想像する人質生活とは大きな違いがありますね。

竹千代が駿府に預けられた目的、それは何だったのでしょうか? 竹千代は今川家に引き取られることによって、生国の岡崎では想像も出来ない駿府の今川文化に接したのです。竹千代は立派な三河領主となるため、今川家で政治を勉強するため預けられたと言われています。竹千代は12年間余り駿府に滞在し、計り知れない貴重な体験をしたことになります。当時の学校はお寺でした。このため臨済寺の雪斉和尚から学問を身に付け、そして生きていくためには学問がいかに大切かという事を学んでいます。

そうした今川家の環境の中で、竹千代は8歳から19歳まで駿府に滞在したのです。今日で言うと小学2年生から大学2年生までの期間に相当します。

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