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大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の生涯

駿府から江戸へ

大 中 小

秀吉は完成しつつあった家康の五カ国の領国を取り上げ、あえて関東に国替えした。これには理由があった。日本の中心部に位置する「五カ国」を支配する家康が、軍事力や経済力においても目覚ましく向上していたことに脅威を感じた。早速秀吉はこの地を取り上げ、代わって配下の中村一氏(かずうじ)をここにあてがい、豊臣勢力を東海道の中枢に配置しようとした。このため家康と一戦交えると思った中村一氏は、駿府城の石垣を一段と高く積み上げ東方を固めていたという伝承もある。具体的な史料はないが、考えて見ると有りえないことでもない。

関東に移った家康は、五カ国統治時代の民政や軍事力強化のやり方を関東においても実践した。むしろ拡大した。このころの家康は、戦国大名から近世大名に脱皮する「地方直(じかたなお)し」といって、大きな改革を関東においても次々に行った。年貢の増徴や夫役(軍事力)の増強、また家康と対立していた北条氏の家臣も家康になびいた。家康は大坂から離れていたことも幸いし、やがて絶大なる関東の覇者となっていったのである。

このように関東に移された家康は、正々堂々と世直しや国作りができた。やがて関八州の覇者徳川家康と、関西の覇者豊臣秀吉との対立軸はより明確となる。特に秀吉没後に前田利家が没すると、ますます天下は家康の一人舞台となっていった。関ヶ原の戦は、それからあまり時間を要しないで起こるべくして起こった。

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