大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

まだある、家康公の魅力

家康公の駿府大御所とは?~駿府を選んだ目的は何か~

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家康公は慶長10年〔1605〕、わずか2年間だけ征夷代将軍としての将軍職を息子の秀忠に譲った。世間では、「天下は持ち回り」という思想を否定し、徳川家の将軍職の世襲を天下に宣言したのである。将軍職を引退した家康公は、駿府を「大御所」〔引退した将軍の呼称とその場所も意味する言葉〕、としてこの地に移り住んだ。この地を大御所とした家康公は、隠居とは名ばかりで、代表権〔外交・軍事・経済を支配〕を持った大御所であり、むしろ二代将軍秀忠が江戸で隠居していたと見るのが真相である。

駿府大御所家康公の戦略とは、平和国家「江戸」を目指す家康公の戦略的な拠点として駿府を選んだのである。つまり江戸には秀忠を、駿府には家康公自らが、そして名古屋には義直、紀伊和歌山に頼宣を配置した。駿府は江戸幕府を磐石にするため、その戦力的な拠点とし東海道を自由に使える作戦が根底にあった。

また影の幕府として、江戸幕府が正面からやりにくいことをここ駿府で実行した。つまり駿府は、徳川幕府のシンクタンクであり、またドウタンクであった。駿府大御所政治は、江戸幕府の基本的法令〔禁中並公卿諸法度・武家諸法度・諸宗諸本山諸法度〕を駿府で整備し、また経済も文化も後の江戸を考えるとき、駿府大御所時代の役割を抜きにして考えることはできない。

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