大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大航海時代の駿府の家康公

アダムズ、造船に着手

大 中 小

家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府で大御所政治を展開する以前からアダムズを積極的に利用した。アダムズは相模国三浦郡逸見(横須賀市)に250石の領地を与えられ、名前も「三浦按針」(按針とは水先案内の意味)を名乗った。アダムズは伊東の海岸で日本最初の洋式船(ガレオン船)を造船させた、その船が立派に完成したためその論功行賞として領地を与えられたものと考えられる。

洋式船の建造は主にリーフデ号の生き残りの一人、ピーター・ヤンツ(オランダ人)が腕前を発揮して完成させた。ヤンツは造船の心得があり、アダムズ自身も造船の作業をしていたことも幸いしたのだろう。造船作業には家康お抱えの船奉行向井将監ら十数名の日本人も参加した。こうして日本最初の80トンの洋式船は完成した。無事進水に成功したことに家康は大変喜び、乗船して江戸湾の浅草川口(現在の隅田川下流)まで船を浮かべて江戸市民に見物させたというから家康も大喜びであったことがわかる

その後に120トンの船も造られた。これも出来栄えは上等で、家康は再び大坂と江戸のあいだを実習航海させている。この船がその後スペイン人のフィリピン総督ドン・ロドリゴをメキシコ西海岸アカプルコメキシコ西海岸アカプルコまで送り届けた船である。家康の狙いはヨーロッパに遅れを取ることなく、自力で航海技術や造船技術を習得することにあった。この造船を契機として日本の造船技術は向上した。それが慶長18年(1613)伊達政宗が幕府の船大工とともに造船した「サン・ファン・デ・バウティスタ号」(日本名不明)の造船で、幕府の造船技術を世界的水準にまで押し上げる基礎となっていたようである。この船は支倉常長の慶長遺欧使節団を乗せた。その後も太平洋を往復した。アダムズの造船に続く本格的西洋船で、スペインのシマンカス文書館の記録によると500トンあったという。スペイン人もこの船には驚き、世界に誇るガレオン船となんら遜色のない立派な出来栄えであったというから家康の力の入れようがわかる。

次へ 戻る

ページの先頭へ