大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

久能山東照宮と久能山城

大 中 小

久能山城

久能山城〔現在の久能山東照宮の場所〕久能山東照宮のある現在の久能の山は、武田信玄が駿河の今川氏を攻略するまでは久能寺と呼ばれた駿河国内でもとりわけ歴史のある大きな観音信仰のお寺が存在していた。西行法師も訪れ、正に東国を代表する山岳信仰の天台宗の寺であった。ところが城郭(山城)を築くために絶好な場所であったことから、武田信玄は永禄11年(1568)駿河の今川氏を攻め滅ばせると、ここに「久能山城」を築城した。このため久能寺は、清水区の村松に強制移転させた。これが現存する鉄舟寺である。

武田信玄は久能の山に注目し、この年、庵原(いはら)弥平衛に案内させて久能の山に登り久能観音の寺や坊を追い出して、馬場美濃守・山県三郎兵衛の2人に縄張を命じて山城(久能山城)を築城させた。こうして久能山城は、断崖絶壁に囲まれた難攻不落の山城として完成した。城代は今福浄閑斎(じょうかんさい)を置いた。

武田勝頼没落の後に久能山城も落城した。その後中村一氏が、家康公の代わりに駿府城主となると、要害の地として再びこの山城に守りを配置した。慶長12年(1607)家康公が大御所として駿府に来ると、久能山城は堅固な名城として本多上野介が守備に就いた。この時、元々この山に住んでいた観音の衆徒(しゅうと)たちが、再び観音霊場の再建を家康公に願い出た。ところが家康公は、村松に移転していた久能寺に寺領を与えて保護するに留まった。久能山の戦略的価値は、誰よりも家康公が承知していたからである。由緒ある久能寺(鉄舟寺)には、国宝久能寺経があり、東京国立博物館に寄託されている。

久能山東照宮と家康公

久能山東照宮には、家康公関連の史話と史跡が凝縮している。いわば、家康公のメッカ である。家康公は元和2年(1616)4月17日、駿府城内で75歳に他界すると、遺言によって遺体はその日の内に久能山に運ばれ埋葬された。現在の重要文化財の社殿は、2代将軍秀忠公の命によって、徳川頼宣が総奉行となり大工中井大和守によって同年5月に着工し翌年の12月に完成した。実に1年7ヶ月で、見事な現在の社殿ができたのである。

同3年(1617)3月9日には、勅使(ちょくし)中御門中納言尚長(なかみかどちゅうなごんなおなが)が参詣し、同じく12月21日には、勅使万里小路孝房らが参詣している。この折に、東照大権現の神号を賜っている。久能山東照宮と称するようになったのは、正保2年〔1645〕11月3日の宮号(みやごう)の宣下(せんげ)からであった。東照宮の宮号の宣下を天皇より受けるため上京したのは、江戸の高家今川家であった。

重要文化財の社殿

久能山東照宮は、神廟(家康公の墓所)・社殿(これは権現造りといわれる形式で、本殿、石の間、拝殿の三つが連結している)・神庫・神楽殿・鼓殿・その他の諸建造物も国の重要文化財であり、久能山全神域は国の史跡に指定されている。このため石段の参道も国の重要文化財である。久能山東照宮の本殿には、高欄付(こうらんづけ)の階段の上に3つの扉があり、正面に家康公、左右に織田信長と豊臣秀吉を祀っている。いずれの建物も、豪華絢爛を極めている。

ところが明治初年の神仏分離令によって、寛永年間に松平豊前守が造営した見事な五重塔も、仏教的色彩のある諸施として解体され木材や金具が売却された。このため有名な五重塔も今はなく、壊された塔の礎石後には駿府城から移された蘇鉄が植えられている。

久能山東照宮の宝物

重要文化財・スペイン時計〔久能山東照宮蔵〕

久能山東照宮には、三池の刀と呼ばれている名刀がある。九州三池の名工(典太光世(でんたみつよ))の作と伝えられ、家康公の愛刀で死ぬ2日前に試し切りをさせ、よく切れると聞いて安心し、これを神体としてまつれと遺言されたものである。久能山東照宮では、信仰上からも、一番大切な刀として扱われている。

東照宮には、歴代将軍の武具並びに装束(しょうぞく)、スペイン国王から贈られた時計、その他数多くの遺品が久能山東照宮博物館に 大切に保存されている。是非、家康公や徳川関係の文化財を、博物館でご覧下さい。

石蔵院(せきぞういん)と家康公に殉死(じゅんし)した井出八郎右衛門

井出八郎右衛門殉死の碑〔駿河区安居〕久能山東照宮に向かう久能道に沿った場所に安居(あご)という地名がある。地内の石蔵院山門入口に、井出八郎右衛門(いではちろううえもん)の墓がある。井出八郎右衛門は三方ヶ原、小牧山、関ヶ原と、家康公に従って戦った純朴な家来であった。彼は家康公が病気と知って、相模国で隠居していたが見舞いのため駿府に来た。ところが家康公が没すると、「未来も永くお仕えする」と書き残し石蔵院の門前で殉死(じゅんし)した。

家康公の遺金と由比正雪事件

慶安事件で有名な由比正雪は、世界一の大富豪として知られていた家康公の遺金を奪おうとして乱を画策していた。ことは事前に発覚したため、正雪の乱は成立せずに未遂に終わった。正雪は家康公の残したお金を奪い取り、それを軍資金として徳川幕府を倒して政権を奪取しようと企んだのである。

正雪は家康公の遺金が、久能山の御金蔵に蓄えてあると信じ100万両の貯蔵金を奪い取り軍資金として天下かく乱を目論んだ。ところが久能山に一時運び込んだお金は既に無く、幕府や御三家に配分した後だった。しかもこの慶安事件の背後には、怪しく関与していたともいわれる御三家や天皇が関わっていたという小説の世界のような出来事が伝承されている(「清水の史話と伝説」)。

次へ 戻る

ページの先頭へ