大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

服織・藁科方面

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増善寺

増善寺〔葵区慈悲尾〕増善寺のある葵区慈悲尾(しいのお)は、江戸時代は美和地区に属していたが明治になって服織村に属したため「服織・藁科方面」で。増善寺は家康公(竹千代)が、今川義元の人質時代に増善寺の等膳(とうぜん)和尚(宗珊ともいう)とは岡崎時代から顔見知りということもあり、人質の身をよく理解してくれた等膳和尚を特別に慕ってよくこのお寺を訪れたという。ある日のこと、竹千代が増善寺を訪れ参道で鳥を捕っていると、村人が竹千代に向かって「この寺は殺生禁断(せっしょうきんだん)の寺だ、殺生するとはけしからん」と言って罵(ののし)ったという。

竹千代は等膳和尚にこのことを告げると、和尚からも「むやみに鳥類を殺傷することは仏の道に背くもの」として説教されたという。この時に竹千代は、「自分は父親の葬儀にも墓参りもすることなく、駿府に人質に来たため1度だけでもいいから岡崎に墓参に行きたい」と告げたという。このことを聞いた和尚は、竹千代のために密かに墓参を実現させたことが寺の記録に記されている。その道案内をしたのが、広野の味知家であり竹千代は持舟の港から密かに岡崎に向かって無事帰途に着いた。

等膳和尚はこの縁によって可睡斎の住職となり、駿河・遠江領内の曹洞宗を統括する「僧録(そうろく)」の位を得たという(「可睡斎(かすいさい)文書」)。この縁から増善寺には、家康公ゆかりの天目茶碗(てんもくちゃわん)・団扇(うちわ)・火縄銃(ひなわじゅう)などが寺宝として伝わっている。

建穂寺(たきょうじ)

建穂寺〔葵区建穂〕真言宗の由緒ある建穂寺の創立は平安時代に遡(さかのぼ)り、安部七観音の霊場でもある。現在寺はなく、町内会で管理する観音堂の中には、往時を偲ぶ見事な仏像が50体ほど残されている。本来お寺があった場所に建穂神社が残され、裏山には昔の観音堂へ登る道が残され、観音堂跡に往時を偲ぶことができる。途中に墓所があり、石仏が見学できる。建穂寺伝来の稚児舞はこの観音堂で古くから行われ、今川時代に駿府に食客として滞在していた山科言継(やましなときつぐ)はその様子を「言継卿記(ときつぐきょうき)」に記している。

家康公も建穂寺の観音会(かんのんえ)に参詣し、稚児たちが奏(かな)でる舞いが気に入り、浅間神社に奉納し天下泰平・五穀豊穣を祈願させている。その見返りとして、建穂寺に家康公は486石の寺領その他を寄贈した。寺領486石は県内では最高の待遇であり、その朱印状が浅間神社に残されている。

浅間神社との関係

古来この寺では稚児(ちご)の祭りが行われていた。家康公が大御所として駿府に来ると、建穂寺の稚児の祭りを浅間神社に奉納することになり、この祭りが浅間神社の「廿日会祭(はつかえさい)」(現在の静岡まつり)のルーツとなった。浅間神社には駿府の資産家であった野崎家が記した廿日会祭の古文書が残されている。(「浅間神社文書」)

稚児道(ちごみち)

家康公は稚児の神事を浅間神社で奉納されることに対するお礼として、安倍川右岸から建穂寺大門までの道を寄進した。これが稚児道と言われている。また安倍川左岸の安西五丁目を建穂口(たきょうぐち)と呼んで、建穂から来るお稚児さんをお迎えする場として名付けられた。その後安倍川に橋が架けられると、その橋の名を「稚児橋(ちごばし)」(現在の安西橋のこと)と呼んだのも、こうした家康公と建穂寺稚児の由緒によるものである。(安西と稚児橋も参照)

野田沢(のたんざー)

家康公が天正時代に駿府に入府する時、吉津(よしづ)の山(野田沢)を越えて来たことが羽鳥の旧家である石上歯科医が所蔵する「石上家系譜」に残されている。また家康公の家臣、松平家忠の記した「家忠日記」によると、駿府城を天正期に築城するときには近くの藁科川右岸の牧ヶ谷からも城の建築石材を切出して運搬した記録が残されている(「家忠日記」)。

水見色(みずみいろ)の旧家善兵衛

水見色村に朝比奈縫右衛門(あさひなぬいうえもん)という武士がいた。大御所家康公の駿府御在城の時、城内で不敬があったため朝比奈縫右衛門は家康公の勘気をこうむり切腹した。その後善了という者が召しだされて縫右衛門の代わりに村を支配することとなったとされるが、これは、慶長時代ではなく、家康公の駿府支配であった天正期の出来事であることが水見色の大家に残された古文書からも証明できるため、その時代は天正時代の出来事と訂正しておきたい(「佐藤家古文書」)。

富沢(とんざわ)名主六郎兵衛と鮎

富沢に名主を勤めた旧家がある。代々六郎兵衛を名乗っていた。富沢は藁科川の鮎漁で知られた場所で、富沢に簗(やな)を仕掛けるお墨付きを家康公から与えられていた。このため毎年その年の初鮎を生きたまま大盥(おおたらい)に入れ、それを駿府代官に献上するのが恒例となっていた。ところが大切な、そのお墨付(すみつ)(証文)きを紛失してしまったという。その結果がどうなったのかは伝わっていない(「駿河の伝説」)。

大原森の泣石

大原の山奥に高さ1丈(3メートル)の巨石があった。駿府城の石材として切り出そうとしたが、ところがどうしても硬くて割れない。石工は残念がっていつも泣いていたという(「駿河の伝説」)。

小瀬戸(こせど)の石切り場

石切場〔葵区小瀬戸山中〕同じく藁科の話で、駿府城の城石を切り出した小瀬戸の石切り場である。ここは現在でも石を切り出した場所がはっきりと残されている。切り出そうとして刻印を刻んだままの石、大きく楔(くさび)を入れた痕跡(こんせき)などが残されており、城と結びつく立派な文化財である(「駿河の伝説」)。

富厚里(ふこうり)・奈良間(ならま)の石切り場

藁科川中流の富厚里や奈良間地区でも駿府城の石を切り出した伝承がある(「駿河の伝説」)。

奈良間の念仏石(ねんぶついし)

奈良間の八重ヶ瀬(やえがせ)には、大小3個の巨石があった。大きいものは2間四方で、駿府城の城石のため石工が石を割ったところ、石工は事故で死んでしまった。石工たちは事故があった石を城石に使用できないため、石工の霊を慰(なぐさ)めるため念仏を刻んで慰霊(いれい)した。その石を「念仏石」という(「駿河の伝説」)。

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