大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大航海時代の駿府の家康公

外国人の大御所詣で - サン・フランシスコ号の座礁からスペイン国王使節、駿府へ

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ドン・ロドリゴの漂着

スペインはコロンブスの新大陸の発見を機に、16世紀にはフェリーペ二世のもとで積極的に海外に進出した。本国以外にもイタリア・ネーデルランド(オランダ)・新大陸と広大な領土を有す世界の最強の国となった。さらに太平洋を越え、マニラ(フィリピン)を占領しアジア進出の拠点とした。そのスペインから大物が来日したのは、1611年(慶長16年)である。きっかけは、この2年前にスペイン領フィリピンの臨時総督であったドン・ロドリゴを乗せた船が、メキシコに帰国する途中で難破し、思いがけなく日本に漂着したからである。

1609年7月25日にマニラのカビテ港を三隻の船が出帆した。三隻の船はメキシコに直接帰る予定であった。途中で暴風雨に遭い、ドン・ロドリゴを乗せたサン・フランシスコ号は現在の千葉県御宿町の沖(北緯35.5度)で難破し、サンタ・アナ号は豊後の海岸に漂着した。サン・アントニオ号だけはそのままアカプルコまで航海を続けた。日本の暦では慶長14年9月のことである。サン・フランシスコ号は、1,000トンもある当時としては巨大な船であったため、難破で約50名(56名とも)が溺死し370人は浮遊物につかまり助かったという。

ドン・ロドリゴ日本見聞録船はマニラからの財宝を大量に載せたまま海底に沈没した。サン・フランシスコ号の積み荷は、宝の山のように散乱し拾い尽くせないほどの品物が安房・上総・常陸・下総辺りの海岸に流れ着いた。江戸にこの噂が広まると、大勢が出掛けて拾い集めたため幕府は高札を立てて漂着物の略奪を禁止した(「慶長見聞集」)。

乗組員たちは、最初難破したその場所が日本とは知らず無人島と思ったという。ところが水田を発見したり、土地の人々と出会ってようやくここが日本であることを知った。ドン・ロドリゴはこのときの様子を次のように記している。

「溺死者五十人に達し、我等は神の御慈悲により救われた者は、ある者は材木にある者は板によって逃れ、その他は船尾の一部の残存するものに留まり陸地に達した。陸に達した者の多くは裸で、航海士によればここは日本ではなく無人島か、また洋中の何処であるか知る者はなかったので、水夫二名に命じて上陸して土地を探検させると、すぐ稲田を発見したため、これによって食料品の保証を得たが、島の住民次第では武器もなく防御の手段もなく我々の生命の安全も難しい」(「ドン・ロドリゴ日本見聞録」)。

ここが日本と分かって安心した一行は、衣服や食料も住民から惜しみなく与えられ、飢えをしのぐことができた。(この事件の記念碑が、御宿の海岸に建てられ、日本とメキシコ友好の碑となっている。エチェベリア・メキシコ大統領もここを訪れている)。 大多喜城主は、駿府の家康に使者を派遣し彼らの扱いについて沙汰を待った。

ドン・ロドリゴ、家康に謁見

家康は一行を駿府城に丁重に連れてくるよう命じた。ドン・ロドリゴ一行は、駿府城に来るまでの東海道の至るところで、外国人の珍しさから見物対象となって、群衆に悩まされた。彼の書物に「市街を通行すること頗(すこぶ)る困難なりき」と記し、いずこもごったがえして動きが取れなかった模様である。途中で一行は江戸城の将軍秀忠を表敬訪問した。ドン・ロドリゴは、江戸城や江戸の街の見事なことに驚愕したばかりか、日本の家は外観はスペインの方が見事だが、家の内部は日本の方がはるかに美しく、しかも清潔だと記している。

駿府城には江戸城を訪問した4日後に到着した。ドン・ロドリゴこそ、家康が以前から会いたがっていたスペインの要人であった。メキシコ西海岸のアカプルコとフィリピンのマニラは、太平洋航路(スペイン人は秘密のルートと呼んだ)でつながっていたことを知っていた大御所家康は、太平洋のはるか彼方のメキシコとの貿易に関心を寄せていた。

ドン・ロドリゴは、家康の要求を知りながらも日本を通り過ぎようとしたわけであった。それが遭難事件によって、図らずも家康と会わなければならない運命となってしまった。

駿府に到着したドン・ロドリゴは、家康に接するための作法などを教えられていよいよ対面することとなった。通訳はイエズス会のファン・ポロタという。通訳を介してドン・ロドリゴは、「予は最近まで、世界中で最も強大なスペイン国王の代表者であった」(「ドン・ロドリゴ日本渡航記」)といい、家康を威嚇(いかく)したと彼の記録に記されている。まず、彼の手記から見てみよう。

「皇帝(家康)はとても大きな部屋にいて、その建物の精巧なことは言語に尽くせず、その中央より向こうに階段があり、そこを上がりきると黄金の綱があった。部屋の両側に沿ってその端、即ち皇帝の居る場所より約四歩の所に(ロドリゴたちは)進んだ。その高さ一・六メートルにして多数の小さな戸があった。家臣等は時々皇帝に招かれこの戸より出入りした」。家康のことについては、「彼は六十歳(正しくは六十七歳)の中背の老人で、尊敬すべく愉快な容貌をしており、太子(秀忠)のように色が黒くなく、また彼より肥満していた。私は、あらかじめ、握手を求めたり手に接吻しないようにと注意を受けていたので、椅子のところに行くと最敬礼をした。彼はそれまで容貌を変えなかったが、少し頭を下げ私に対して大いに好意を示して微笑し、手を挙げて着座せよという合図をした」(「ドン・ロドリゴ日本渡航記」)とある。

ドン・ロドリゴの日本観

ここでドン・ロドリゴの日本観を見てみよう。「皇帝(家康)は世界の裕福な君主の一人で、その宮殿(駿府城)に蔵する金銀は数千万の価ありと伝えられ、諸都市は人口が多く清潔で秩序正しく、ヨーロッパにおいてもそれと比較すべきものを見出すことは困難である。江戸の市政はローマの政治と競うことができ、街路は幅広く長い直線でスペインに優り、何人も踏んだことがないほど清潔である。そこのパンは世界中で最良といっても過言ではない。風土はスペインに似ており、米、麦が多く、狩猟・漁獲物など欠けるものがなく、すべてスペインに優りその量も多い。銀の鉱脈が多く、日本人は銀の精錬技術に熟していないにもかかわらず驚くべきほど産出する。(日本国内で)採取する金もまたその質がひじょうに良く、それで貨幣を造っている。(中略)もしこの野蛮人の間に、(我らの主なる)神が欠けておらず、また、(この国が)我らの国王陛下に従っているならば、私は故郷を捨ててもこの地(日本)を選びたい」(「慶長遺欧使節」)。

ドン・ロドリゴは、1636年に81歳で他界した。その一生は大航海時代の中で輝かしい生き方をした勇気ある人物であったという。

スペイン国王使節ビスカイノ、駿府へ

アダムズ造船の船がメキシコに渡ってから約1年後の慶長16年(1611)スペイン国王フェリーペ三世は、駿府の家康のところにセバスチャン・ビスカイノ大使を正式に外交官として派遣した。ドン・ロドリゴらが日本の船を借り、彼らが無事に帰国できたお礼のためというのが表向きの目的である。探検家でもあったビスカイノは、アカプルコから日本に来る航海で、通常のマニラ経由を選ばず、アカプルコから直接太平洋を横断して関東の浦賀の港に直行し人々を驚かせた。(この時に船はアダムズ造船の船ではなく、アカプルコの極東艦隊の船であった)

田中勝介と22名の日本人も帰国した。ビスカイノの本当の来日の目的は別にあった。それは日本近海にあると伝えられていた「金銀島」の発見や、スペインが将来日本を侵略するために、日本の島や港として使える場所を測量をすることであった。慶長16年5月12日(1611年6月22日)、江戸で将軍秀忠にビスカイノは謁見した。その後の7月4日に駿府に到着し、翌日に家康に謁見した。

ビスカイノと家康との会見は友好的なものであった。ところがこの時期は、キリシタン問題が重大な局面を迎えていた。そのため家康のスペイン人に対する態度は日々冷却していく最中でもあった。ビスカイノが日本に失望してゆく様子を彼の著書「ビスカイノ金銀島探検報告」に書かれている。その前に、家康との会見の様子から見てみよう。

ビスカイノ、家康に謁見

キリシタン問題が不安な要素を持っていたときだけに、ビスカイノ一行が駿府に到着したときには、駿府の信者たちはとても喜んでこれを迎えている。ビスカイノと一緒に帰国した田中勝介もキリシタンの一人で、洗礼名をドン・フランシスコ・デ・ベラスコと名乗った。彼は一足先に駿府に戻り、メキシコからの帰国報告を家康に行った。ビスカイノ一行が駿府城に家康を訪問したのはその直後である。ビスカイノはこのとき、「日本諸国諸州の皇帝閣下」と題する国王の書簡を家康に手渡した。まずビスカイノの記録から見てみよう。

「十時頃、大なる駿河の市(駿府)に着きたり。到着する前、既に貴族となり殿の寵を有するドン・フランシスコ・デ・ベラスコ(田中勝介)が多数の供を連れ、宮中の他の貴族一人と共に大使を出迎へたり。我等は宮殿(駿府城)より遠からざる甚だ好き家屋に宿泊せり。皇帝は直ちに使者を遣わして大使に歓迎の辞を述べ、長途旅行の疲労を休むべく、またその来着を喜び、書記官(本多正純)をして後に通知せしむ旨を大使へしめしたり」(同書)。

重文・スペイン南蛮時計彼の記録によると、田中勝介がビスカイノを迎えるために、駿府の街外れに出向き一行を大歓迎したことが記されている。また、駿府城が優れた名城であると指摘し、駿府城の広さはメキシコ市の住宅地全部の二倍以上だと記した。このことは、おそらく、現在のメキシコ市の中心部にある「ソカロ広場周辺」から想像したものだろうか。 家康との接見の儀式が整うと、彼らは駿府城内の御殿に向かった。ビスカイノは、たくさんの品々を家康に献上した。日本側の記録によれば、時計 ・カッパ上下・反物・ブドウ酒(白ヘレスと赤ブドウ酒)・鷹具・靴・金筋・南蛮絵である(「方物到来目録」)。このときの時計とは、あとで述べる家康の時計で久能山東照宮に現存しているものである。

また南蛮絵とは、国王フェリーペ三世と王妃ならびに皇太子の肖像画三枚で、家康はこの絵をじっと眺めたという。ところがこの南蛮絵は現存していない。面白いことに本多正純は、献上物の「受取状」を発行している。外国人から一切の品物を受け取らなかった本多正純は、このときだけは珍しくビスカイノから「ガラス製品」と「石鹸」をもらい大変喜んで何度も何度もお礼をいって受け取った。フェリーぺ三世しかし彼は、「これは自分がもらうのではなく、大御所様に使用してもらう」と述べたためビスカイノも感心した。

そこでビスカイノは、「彼は潔白且忠実にその職に尽し、君なる国王に仕えて怠ることなく、その扱う所の事務につき、常に偽なく陳述す」(同書)と感銘深く記した。

一方の家康の重臣である後藤庄三郎については対照的である。彼に品を出すと「羅紗その他の品を贈りしが、この人は躊躇することなくこれを受納せり」(同書)と記している。このほかにも後藤庄三郎は、彼がイギリス使節が来たときにも土産を遠慮なくもらっており、同様なことをイギリス王使節のジョン・セーリスも記録していた。後藤庄三郎が欲深なことが、396年以上も経った今でも記録に残ってしまったことになる。

スペイン外交の終焉

ビスカイノは、「事の始は良好なりしが、終は宜しからざりき」(同書)ともいい、また「日本人は世界における最も劣悪な国民」(同書)と厳しい非難を浴びせた。このため慶長17年7月22日付のスペインとの通商に関する書簡は形式的で実態のないものに終わった。ビスカイノは、オランダ人たちが家康の心を引くため贈物攻勢をかけて機嫌を取っていることや、アダムズの中傷も記している。そのためか、家康の面前で再び疑惑を晴らそうと試みるが、弁明の機会すら与えられなかった。結局ビスカイノは、1613年、伊達政宗が支倉常長とソテロを「慶長遺欧使節」としてメキシコに派遣した機会に同じ船で帰国した。

ビスカイノの後にも、スペインからは二人目の大使ディエゴ・デ・サンタを駿府城の家康に派遣したが会見すら実現できずに帰国した。

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