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大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の生涯

隠居でなかった家康の晩年

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府遷都・天下を睨む

慶長10年(1605)家康は将軍職を息子秀忠に譲った。この時、家康64歳である。将軍職を息子に譲った目的は、自ら大御所として天下取りを確かなものとするためである。

大御所となった家康は、依然として幕府権力を握ったまま全国をコントロールし、二代将軍秀忠が家康に代わって江戸で隠居していたという言い方もある意味では当てはまる。二代将軍秀忠は将軍といえども、駿府の大御所家康が決めたことを江戸城において「将軍秀忠名」で決裁していたことになる。そのため多くの権力は、駿府の徳川家康がハンドルを握っていた。そんな大御所家康について、スペイン人のアビラ・ヒロンは彼の「日本王国記」にこう記している。

「日本の領主たちは、彼らがすでに年老いたり、自分の子供たちが成人になったりした時、隠居する習慣がある。これは領主の地位をやめ、剃髪して統治を相続者に委ねることである。しかし今のこの国の国王(家康)には、この流儀に従うつもりはない。現に王子(秀忠)はすでに35歳を越える大人であるが、依然として国王自ら統治しているからである」(「日本王国記」)。

「大御所時代」とは、家康が駿府に来た慶長12年(1607)から元和2年(1616)に亡くなるまでの約10年間である。家康は駿府を舞台に大胆な政策を展開し、幕府延命策を次々と打ち出した。その仕組みは巧妙で、隠居という立場を隠れ蓑として大胆な政策を縦横無尽に展開した。来日していた外国人でさえ、家康を隠居と見ていた人はいない。ところがどうしたことか、静岡の人々は家康の駿府城大御所時代を隠居と思い込み、隠居として日々遊んでいたと理解している人が多い。

大御所家康は、特に徳川家と対立関係にある天皇や公家さらには大名や寺院に対しても大改革を加えるべく作戦を練りながら、駿府から睨(にら)みを利かせどうしたら彼らを懐柔できるかを考えていた。家康は駿府に有能な人物を集めて大御所政権を樹立した。このため日本には江戸の秀忠政権と、駿府の家康政権が同時に存在した。これを「二元政治」と呼んだ。

とくに駿府政権は江戸を上回る勢いで活動していたため、日本の首都は江戸ではなく駿府ということになる。駿府は首都としての機能を発揮し、来日する外国人たちも駿府の家康との会見が彼らの目的であった。そんな駿府は見方によっては、幕府延命のための謀略の基地と言えなくもない。当然の外国人の関心事も、江戸の徳川秀忠ではなく駿府の家康に注目していた。

朝廷と大名への圧力

秀忠が真っ先に始めたことは、元和3年(1617)6月14日奥州伊達政宗や上杉景勝、佐竹義宣、戸田康長、蜂須賀至鎮(よししげ)、本多正純らの大部隊を引き連れての上洛である。上洛の目的は、家康後の大名の大々的な再編成である。大名の大編成によって秀忠は、家康以来の大名地図を積極的に塗り替えた。

続いて元和5年(1619)5月8日、再び軍勢を引き連れ上洛の途についた。この時は五女和子(14歳)を後水尾天皇(25歳)の妃として入内(じゅだい)(御所に入ること)させるためである。本来は慶長19年(1614)に行う予定が、大坂の陣によって延期されていた。また家康の死去と、御陽成院の死去も重なりこの日を迎えた。

ここで大問題が起こった。後水尾天皇には愛人がおり、すでに皇子(賀茂宮と呼ばれ五歳で死去)が誕生していたことが将軍秀忠の耳に入った。秀忠は入内を延期し、幕府と朝廷は一時的に緊張関係に入った。秀忠は一歩も引き下がることなく、朝廷に仕える近臣たちに圧力をかけ、また徳川家康が制定した「禁中並公家諸法度」武家諸法度の精神をもって事件を追求し責任ある立場の公家たちを処分した。

秀忠の高圧的行動で朝廷も折れ、和子の入内は落着した。秀忠は改めて元和6年5月28日、再度上洛を企て、家康の築いた二条城で待機し6月18日入内と決まった。秀忠は和子の警護のため、前例のない警護の武士を禁裏(御所)へ差し入れたのである。その数与力10騎、同心30名という。朝廷への武士の配置は、幕府側の朝廷監視役へとつながり制度化していった。秀忠にしてみれば、災い転じて福となした事例であろう。

秀忠は元和5年(1619)5月8日の上洛で伏見城に4カ月も滞在した。秀忠は徳川家康の「武家諸法度」に背く行為を威嚇するため、福島正則が広島城の普請を幕府に無許可で決行したことを取り上げた。福島正則の詫びにもかかわらず、秀忠は広島城の本丸を除くすべてを取り壊すよう命じた。福島正則は秀忠の指示に反し、二の丸や三の丸には手をつけなかった。このため秀忠は城を取り上げ福島正則を信濃に改易した。

この事件が家康によって発布された「武家諸法度」が、現実に大名に適用された初のケースである。続いて元和6年(1620)、秀忠は大坂を訪れ家康が果たせなかった大坂城の大普請を西国の諸大名を動員して完成させている

(注)豊臣秀吉時代の大坂城の形は消え、徳川家の支配する大坂城として変貌した。普請奉行は藤堂高虎であり、新しい城の堀は秀吉時代の二倍の高さで積み重ねるよう秀忠は命じた。

世間ではこの普請を「御代替りの御普請」と呼び、家康亡き後の秀忠が率先して実施したことを意味する言葉である。秀忠は家康に続き、もはや押しも押されぬ天下人として注目されていくことになる。

(注)大坂の陣後、大坂は一時松平忠明の領地であった。将軍秀忠はここを幕府直轄地とし、元和 6年(1620)大規模な修築工事を命じた。工事の完成には10年の歳月をかけ、寛永6年(1629)に完成した。ところが36年後に落雷で天守閣は焼失した。これ以後、江戸時代を通じて大坂城の天守は再建されることはなかった。駿府城天守が焼失したのも寛永12年(1635)で、駿府城天守も以後再建されていない。

幕末になってから、大阪の人々の寄付金などで大手多門櫓の再建をはじめその他の大修復も行われた。ところが明治維新の動乱で多くを失った。現在の天守閣は、昭和6年に鉄筋コンクリート造で地上55メートルの天守閣として再建されたものである。

先の和子が中宮(正妻)となると、それまでなかった朝廷からの勅使が元和7年(1621)から江戸に派遣されることとなった。こうして幕府と朝廷の融和は促進した。これも将軍秀忠の隠された才能であり能力である。続いて元和9年(1623)、秀忠は45歳で将軍職を息子家光に譲った。家康の例に従って大御所となった秀忠は、寛永9年(1632)5月24日に54歳の生涯を江戸城西の丸御殿で閉じた。

凡庸な将軍と言われたが、秘められた能力を遺憾なく発揮した秀忠である。将軍在位18年間であったが、秀忠の政治は江戸幕府成立のキーマンともいわれ、戦国時代を更に近世へと近づけた将軍でもあった。彼は平和の夢を実現した、家康に続く江戸幕府の立役者と言って良い。秀忠は家康の望んだ平和の路線を堅持し、見事にそのための路線を敷設した。

息子の三代将軍家光は、家康と秀忠の路線を引き続き走り続けた。家康存命中は表面的にも形式的にも、家康の存在を超えることができなかった秀忠であった。ところが結果は家康の目論見通りの世継ぎとして成功した。

家康の病と葬儀

大坂冬夏の陣によって家康は、宿敵の豊臣氏を滅亡させた。元和元年(1615)5月8日のことである。ようやく隠居として自由な時間を持つことができた家康の生活は、時間を惜しむかのように鷹狩りの連続であった。翌年の正月21日に藤枝方面で鷹狩を実施し、その夜は宿舎の田中城で興津鯛のテンプラを食べたところ、にわかに腹痛をもよおし苦しみだした。

医師片山宗哲の必死の介抱で、一時は持ち直したため家康は駿府城に戻った。駿府城には全国から、次々と見舞いの諸大名や公家・親王らが駆け付けた。直接来たり、あるいは使者を遣わし駆け付けて来た者たち。ところが病状は良くならず、2月11日に神社や寺々に病気平癒の祈祷が命じられたにもかかわらず回復しない。4月2日になって、家康は自分の死期をさとって枕許に本多正純、金地院崇伝、天海僧正を呼び寄せ遺言を伝えた。その遺言とは、金地院崇伝の「本光国師日記」によるとつぎの事柄である。

「自分の遺体は久能山に納め、葬儀は増上寺(江戸)で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌が過ぎたら日光に小さきお堂をたて、そこに勧請し八州の鎮守となる」という遺言である。それから15日後の4月17日の午前10時ころ、徳川家康は息を引き取った。七十五歳の生涯である。

家康没後の政権は、江戸の秀忠に一元化された。家康の側近ナンバーワンであった本多正純は、秀忠政権の年寄衆の一員として幕府政治の中枢にあった。しかし土井利勝を越えることはできなかった。正純自身は元和5年(1619)、宇都宮城主十五万石に優遇されたかに見えたが、何かと秀忠を刺激する彼の発言が問題となり、江戸から遠ざけられることになったのである。

元和8年10月今度は将軍の勘気をうけて出羽由利また横手に配流となる。これは突然の領地没収であった。理由は秀忠が彼を快く思っていなかったことや、土井利勝らが秀忠政権を支えていた現在では何一つ不都合はなく、大御所政治の亡霊を引き継ぐ彼の存在そのものが、無用の存在となったまでのことである。

久能山埋蔵金とは?

「久能山御蔵金銀受取帳」(元和2年)という記録が尾張徳川家に残っている。つまり徳川家康公の遺産である。それには、「金箱の数四百七十箱、この内へ金銀の一箱入、銀の箱四千九百五十三箱」とある。全体の金額は、金九十四万両。銀が四万九千五百三十貫で、九十九万六百両という。久能山東照宮社殿また銀銭が五百五十両、合計百九十三万一千百五拾両である。辻文学博士の説によると、「銀五十匁を金一両として、総額百九十四万千六百両ほどになる」という(「久能山御蔵金銀受取帳」。

この金を、幕府の御用学者林羅山や本多正純らによると、御三家に全部分配しないで、残りの百数十万両は久能山の御金蔵に納め、他日の必要に備えたことになっている。家康公は江戸から駿府に大御所として来たとき、江戸城にも大金を残していた。その金を秀忠には、「自分の奢侈(ぜいたく)のために使うな、国家のために使え」といった。家康公は幼少時代から他国の敵地で過ごしたため、金銭の貴重さを身に染みて実感していた。このため金銭の使い方を心得ており、旗本や奥女中らにも平素倹約を教え、堅くおごりをたしなめていた。

この久能山埋蔵金を由比正雪らは奪い取り、これを軍資金として幕府転覆を企てていた。その久能山東照宮には家康公が祀られ、榊原氏によって厳重に登山する人々を取締っており、どこかに家康の埋蔵金が隠されているのか不明であるが、埋蔵伝説が伝わり正雪もこれを奪って軍資金とする計画だった。その場所はどこか。この金を巡っていろいろな話がある。

家康公が亡くなって一年後、遺体は日光に埋葬された。天海僧正が言うには、「天海自ら鍬を執って改葬の事を行った」という。このため久能山の霊廟(墓所)は主人不在というが、実際は遺体の改葬はなく、家康の御霊だけを日光に御遷座しただけという。真実はどうなっているのか。天海僧正は歌に、「有れば有り、無ければ無しと駿河なる、久能なる宮の 神遷しかな」と詠んだ。また江戸時代の噂では、「家康の遺金の一部も家康の廟に同居している」とのロマンも一緒に埋葬されたことになる。

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