大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所の町・駿府城下町の誕生

大御所の町・駿府城下町を歩く

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安倍川という大自然の要害に守られた駿府城下町は、自然と人工の美を上手に調和させた美しい町として近世初頭にいち早く完成した。駿府城下町を研究した東京都立大学教授桐敷真次郎氏は、昭和47年に「慶長・寛永期駿府における都市景観設計」と題する論文を発表した。駿府城下町の都市的景観をテーマとした論文として貴重で、駿府城と駿府城下町の設計が如何に計算し尽くされて完成したかを数学的に立証し、駿府城下町が自然を巧みに取り入れた都市建築の最高傑作であったことを指摘した。

特徴は駿府城下町を走る東海道の配置、富士山と天守閣を意識した構図、用水の利用、これらを優先した設計である。駿府城下町の設計者は、日本人憧れの的「富士山」と大御所のシンボルタワー「天守閣」を主役とした。それは富士山の自然美の魅力と、天守閣の人工美の極致を追求し、駿府城下町の中を走る東海道から絶妙に見せていた。

このように駿府城下町は、天下人家康、自然美の極致富士山、それに駿府城下町を美しく流れる駿府用水が主役であった。駿府城下町は大御所徳川家康の町であるが故に、天下人としての雰囲気が充満したセンスある町でなければならない。そのため駿府城下町は、家康のカリスマ性をとことん感じさせる設計者の苦労が読み取れ、富士山の借景と一体となった壮大な都市計画であったという。

具体的に駿府城と駿府城下町を見ていこう。駿府城下町は西から東(つまり上方から江戸)に向かって歩く旅人を意識した設計になっている。東海道を東に向かうと天下の要害大井川が行く手を阻む。旅人はここで川越人足の力を借りて大井川を渡り終えたと思ったら、さて今度は宇津ノ山越えの難所にかかる。しかもその先には大井川同様に「橋のない川」安倍川が控えている。大雨で増水したら「川留め」となる。つまり渡ることが禁止された。再び川越人足の手足を借りながら、苦労して到着した場所が名物安倍川餅の弥勒(みろく)である。

「96ヶ町の図」

弥勒に到着すると、旅人たちは遥か彼方に霊峰富士が聳え立ち、富士山に抱かれたように絢爛豪華な駿府城天守が燦然と輝く仕掛けに驚く。旅人たちは、きっと旅の疲れも忘れ、大御所家康の天守閣と富士山それに駿府城下町の美しさに圧倒されたに違いない。駿府城下町の見せ場はここからはじまる。城や天守を美しく見せるように東海道が走る。その中には、駿府城下町の魅力が隠されていた

さて、桐敷説にしたがって駿府城下町駿府鳥瞰図を歩いてみよう。最初は入口弥勒からである。現在も昔から有名な安倍川餅の店がある。そこを過ぎると「見付」といって駿府城下町の出入りを見張った場所があった。ここを通るとメイン・ストリートは新通りだ。前方に美しい富士山と天守を前面に見つめつつ町中を進んで行くにしたがって天守は大きく見え細部の意匠も次第に輝いてくる。

次に寺町の辺りを右折すると、今度は天守のアングルが絶妙に入れ代わり変化する。それまで天守を正面から見てきたのが、ここから角度が異なって見えるからである。ここでは富士山と天守閣の位置が、実に微妙に入れ代わり天守の角度や装飾が変化して美しい。

また次に左折する。今度は道を真っ直ぐに七間町から札ノ辻まで直進する。すると今までの景観と違って、今度は今まで大きく見えた富士山よりも、天守が旅人の正面にずっしりともっと大きく聳え、辺りを完全に圧倒する仕掛けとなって見える。大御所家のカリスマ性が、駿府城下町や駿府城天守にも微妙に反映していたのである。

次に旅人は大手門の前の札ノ辻(高札場)に掲げられた立て札を丁寧に読む義務がある。つまり駿府城下町での決まりや規則などが、この高札場に掲げられている。その文面は、駿府の街で粗相のないよう注意して行動することや町奉行所のお達しである。札ノ辻を過ぎると、今度は右折して呉服町を通る。ここは七間町と同様に駿府城下町の繁華街である。道は再び城と並行していたが、江川町からカーブとなって今度は斜めに天守を眺めて進むと伝馬町だ。ここを通り抜けると駿府城天守は左手に聳えているのを斜め後ろから眺めて進む。やがて視界から天守は消え、駿府城下町とも別れを告げる。再び大きく現れてくるのが富士山だ。旅人たちは、今度は富士山を道連れとして旅を続けることになる。

以上が江戸に向かうコースであり、江戸からの帰路はこれと逆になる。何とドラマチックなプロセスであろうか。おそらく誰しもが、家康の築いた駿府城と天守の美しさが富士山の雄大な眺めと一体となっているのに見惚れて江戸に向かっただろう。そして美しい駿府城下町は、大御所徳川家康の住む街、天下人の町として旅の土産に語り継がれていったことだろう。

桐敷真次郎氏は論文の中で、駿府城下町の町並みのほかにも駿府城の石垣の上に建てられていた建物の高さも推定しながら、高度な数学的手法で「天守と富士山」のバランス関係を解明し、天下人の駿府城と天守、そして町の謎を解き明かした最初の研究者として注目したい。

彼の論文を裏付けるように、江戸時代来日した外国人たちも江戸参府の途中で駿府城下町の美しさを数多く語っている。シーボルトやケンペルなどが駿府に来た時には駿府城には既に天守は存在していなかったが、オランダ商館たちの江戸参府の記録にも昔ここに美しい駿府城天守があったことが述べられている。

慶長18年(1613)イギリス国王の使節が駿府城を訪れた。ジョン・セーリス一行である。このときセーリスは旅行記を残し、その中で「駿府の町はロンドン17世紀のイギリスロンドン市街よりも大きい」と記した。この頃のロンドンの人口は6万程度というから、もちろん駿府の町のほうが12万の大都会であったことがわかる。

十七世紀のロンドンの町は、駿府城下町などと比較にならないほど不潔な都市の歴史を物語っている。1665年にはペストの大流行で多くの人間が死んだ。町の住民が人糞やゴミを道路に捨て、それらが腐敗し悪臭を放ち、夏場はウジがわき鼠が繁殖する。日本の都市では考えられないほど不衛生であった。道路に豚が放されていたのは、町の清掃のためであったという。

こうした現状から歩道が生まれた。しかしこれは馬車から歩行者を守るためのものではなく、不潔な足元を安心して歩けるためのものである。またハイヒールの発明も人糞などが靴に付着するのを最小限にするために考案された。一方パリ郊外のベルサイユ宮殿は、都市の不潔と悪臭から逃れるためルイ十四世時代に建てられたものである。ところが日本では都市が排出する人糞は、農村の肥料としてリサイクルができていたためきわめて衛生的な町であり、このことも外国人たちは一様に驚いている。

大御所徳川家康の居城駿府城や天守にも、天下人家康のシンボルとなる意匠やデザインの工夫があった。最初に建てられた天守は、2カ月で火災によって焼失した。このため最初に建てられた天守についてはほとんど記録が残っていない。駿府城下行列図家康は2度目の天守再建を命令した。この天守も家康没後の寛永12年(1635)11月29日、茶町の火災が原因でまたもや焼失した。わずか25年間余りの短命であったが、この後には天守は再建されることなく今日に至っている。このとき建てられた天守の記録も少ない。駿府城天守がどんな天守であったのかについては、静岡市教育委員会で調査した報告書「駿府城関連史料調査報告書」(~大御所徳川家康の城と町~)を参照されたい。

二度目の天守を目撃したヨーロッパ人には、スペイン人のドン・ロドリゴやセバスチャン・スカイノ、イギリス人ではジョン・セーリスがいた。外国人の記録の中にも駿府城は断片的に記録されていたが、天守そのものについての記録は少ない。残された彼らの記録から、わずかではあるが駿府城について調べて見よう。

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