大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所の町・駿府城下町の誕生

駿府城下町の特徴

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武士の領域

駿府城本丸には、天守や御殿があり城の中核部分である。次の二の丸には、家康の身内や重臣たちが屋敷を構えていた。特定できる人物としては、家康の子どもや本多正純らが住んでいたことは諸本からも知られている。ところが駿府城絵図の中には、これらが記された絵図は発見されていない。

続いて三の丸である。東京大学付属図書館所蔵の古記録「駿州府中城図」によれば、ここには成瀬隼人、安藤帯刀、永井右近、石川主殿、西尾丹後、それに大御番衆が詰めていた。大御所時代の武家屋敷地は、城下全体の45パーセントを占めていた。武家の配置は身分と格式に応じ、それぞれ住む場所が決められていた。駿府城本丸は、大御所徳川家康の住居として天守や御殿などが置かれていた。家康没後の駿府城は、息子の頼宣(15歳)が城主となった。二代将軍秀忠によってわずか3年で和歌山に国替となった。

このため駿府城は一時番城となったが、寛永元年から三代将軍の弟の徳川大納言忠長が城主となっている。前述したように、忠長が甲斐国に改易されると城主不在の時期を迎えた。つまり駿府城代が置かれた。城代には旗本のエリート官僚たちが交代でこの城を守った。従って駿府城は城主なき変則的な城として幕末まで置かれることになる。

家康在城当時を表わした古地図「御在城下駿府城之図」(旧加藤徳蔵氏所蔵)を見ると、家康が駿府城にいた当時の武士たちの居住の様子が伝わってくる。駿府城下町古地図で年号が記されたものに東北大学所蔵の「駿府古図」(慶長年間)と、「静嘉堂文庫の駿府図」(元和頃)とするものがある。東北大学のものは写しであるのに対して、「静嘉堂文庫の駿府図」は駿府城内に「葵」の紋章が記されていることなどから徳川家の身内が支配していたころの地図の可能性は高い。駿府城下町図では、駿府城内に葵の紋章が描かれているのはこの絵図だけである。

一方、国立歴史民俗博物館が所蔵する「秋岡コレクション」の中の「駿府図」も成立が古いことが浅間神社神域の描き方によって理解できるが、「御在城下駿府城之図」では、浅間神社が未完成であり薩摩土手も部分的に描かれていることからかなり古い絵図と考えてよいだろう。

駿府城本丸をしるした記録では、「駿河御城指図」(東京大学附属図書館蔵)が最も古く、本丸御殿が正確に描かれている。ところが天守は土台部分だけ描かれているところを見ると、おそらく寛永12年(1635)に天守が焼失した以後の御殿と考えられる。ここに描かれた本丸御殿も、城代政治には御殿は不要と思われたのか、徐々に縮小されていくことがその後の図面によって明らかとなる。

二の丸には家康の息子たちや、側近が屋敷を構えていた。絵図では確認できないが、古文書では本多正純など住んでいたことが知られている。続いて三の丸である、「駿州府中城図」(東京大学付属図書館所蔵)や「駿府古城図」駿府古城図(大阪城天守閣蔵)などの古絵図によると、成瀬隼人(なるせはやと)、安藤帯刀(あんどうたてわき)、永井右近(ながいうこん)、石川主殿(いしかわしゅでん)、西尾丹後(にしおたんご)らの屋敷があり、その他に大御番衆の詰所などがあった。

現在確認されている駿府城内の古絵図類の中で、最も古い物でさえも寛永以前の情報は確認できない。家康の大御所時代の駿府城内については、古文書・古絵図・古記録においても詳しいものはない。

また武家居住地では、武士たちは駿府城外に住み城を守るように住居を構えていた。その場所は「草深地区・鷹匠地区・水落(みずおち)地区・横内地区・大手地区」に区分され、上級武士たちの居住区となっている。中には重臣たちの下屋敷も見受けられ、城から離れるに従って中級武士たちの宅地へと続く。

駿府御城之図「御在城下駿府城之図」には、駿府城大手門前に藤堂和泉守、渡辺監物、大久保岩見守、三枝伊豆守ほか十三人の大物の名が見える。一方の横内門側は、矢部・有馬・板倉・稲生・酒井氏らがおり、浅間神社に近い草深近辺は武士たちの他に学者や林道春や茶道の宗匠、それに東草深には観世太夫らの名前が目を引く。また駿府城下町の町割に関わった畔柳寿学と彦坂九兵衛は、紺屋町の一角に並んで住居を構えていた。

次に下級武士(番士)たちの住居である。彼らは現在の静岡市番町の辺りに集団で居住していた。住居は今日のアパート式の長屋で、狭い住居に家族で同居していた模様である。番士たちの生活は、上級武士たちと比較すると住居も食事もきわめて質素であった。

その他の侍たちとしては、駿府町奉行与力配下の同心たちは、駿府城下町の治安を守る意味から、町人居住地域に散らばって住んでいた。これは慶安4年(1651)に起こった慶安事件以後からで、今日の警察官派出所(交番)のようなものの魁である。鷹匠地区には重臣たちの中・下屋敷、あるいは控屋敷が要所に配置され、足軽屋敷がその回りを取り巻いて防備にあたっていたことが古地図に見られる。

武家たちの住む地域は、一般町人たちの住む場所と違って道路は狭く入り組み、敵の侵入を難しくするために複雑な構造を持っていた。現在でも戦災に遭わなかった西・東草深や鷹匠町の一部には、こうした複雑な「鉤(かぎ)の手」といって曲尺のように直角に曲がっていたり、途中で行き止まりの道路の痕跡が見掛けられる。

寺社地

駿府城下町における寺社の面積は、およそ15パーセント(江戸32パーセント)に相当する。主な場所は、浅間神社とその周辺(社僧の住まいも含む)。さらに宝台院と寺町や本通りに集中していた。その他の寺社は、城下に点在したり駿府の外郭に配置された。浅間神社周辺は、社家の住宅や社僧が住んだ寺々が立ち並んでいた。これらは、浅間神社に奉仕する神職たちの住居である。駿府城下町の南の町はずれには、寺町があって各宗派入り交じって寺町だけで一町を形成していた場所(現在の常磐公園)である。

中でも宝台院は単独で、しかも広大な敷地を有して見事な大伽藍を配置していた名刹であった。この宝台院 宝台院こそ、江戸時代初頭の寺院建築の傑作と言われていたが、惜しいことに昭和15年の静岡の大火で全焼した。伽藍は国の文化財でもあった。

この他の寺社としては、朝鮮通信使の宿泊所となった由緒ある宝泰寺(伝馬町)や、家康の祖母の源応尼の菩提寺として知られた華陽院(伝馬町)などがある。

これらの寺は東海道筋の駿府宿で知られた伝馬町界隈に位置している。いずれも、有事の際には東海道の「駿府宿」を守る要衝に配置されていたと考えるべきであろう。

注目されるのは、宝泰寺である。この寺は朝鮮通信使が駿府に来た時に宿泊所となったことがあるが、ずば抜けて綺麗な寺であったようで「国中第一綺麗な寺」と呼ばれたことがあった。

駿府城下の寺社地は、名古屋のように宗派によって寺を集めた形跡はみられない。特に宝台院のような大寺は、駿府防備の役割を兼ねたばかりか二代将軍秀忠の生母の菩提寺として駿府を往復する大名たちに睨みをきかせていた。そうかと思うと、目の不自由な「瞽女(ごぜ)」たちや無宿の集まる場所を提供していたことでも知られていた。

駿府城下町周辺の寺院の歴史を調べてみると、これらの寺の多くが元は駿府城内にあり移転させられていたことがわかる。これは、家康の駿府城の拡張によるもので、昔あった寺は駿府城内になってしまったことを意味している。

町人地

駿府城下の町人地は、大手門の南側に拓けており、町々は整然と道路を挟んで区画(碁盤割)整理が整っていた。駿府の町人や職人たちの町の面積は、全体の15パーセント(江戸32パーセント)を占めていた。各々の町は、道路を中心にして両側に「一町」を配置している。碁盤目状の地区は、ほぼ正方形のブロック(平均50間四方)である。

駿府町方の三分の一をこえる37町は、このように整然と区画された中に集中し、そこでは商工業者たちが町の主役であった。そんな区画された駿府の町について、イギリス人がこんな記録を残している。

慶長18年(1613)イギリス国王使節ジョン・セーリス日本渡航記より

「八月三十日駿河に着いた。(略)この駿府の都市は、郊外いっさい含んだロンドンの大きさほど十分ある、手工業者は都市の郊外及び周辺に住んでいる。なぜなら、上流の者が都市の内部に住んで、職人にはぜひ付き物である、ガタガタの騒音に悩まされまいとするからである」

この簡単な記述の中に、394年前の駿府城下町の職人町のことに触れた貴重な情報が隠されている。つまり今日の公害を避けた町造りである。

町人町は、町奉行によって支配されていた。町々の代表者は「町頭」(今日でいうと町内会長)と呼ばれ、自分たちの町の自治がささやかではあるが行われていた。「町頭」という呼び方は、駿府独特のもので徳川家康が自ら名づけたものである。今日の連合町内会長に相当する職名を「年行事」と呼んだ。

せり・会所について

駿府型町割り「せり・会所図」駿府城下町の町人町は、だいたい一つの町のブロックが平均50間四方であった。この50間四方の真ん中に「せり(世里)・会所」と名づけられた空地が置かれていた。このせりと会所は、町割のときにできた「残り地」ともいわれる場所だ。つまり残った部分ということになる。

具体的にみると、模式図のように一ブロックの両側から裏行き約20間の町並(道路に面した町屋の部分)を造っていく。するとその間に約10間幅の帯状の部分が残る。これが「空き地」として町人たちが共用した部分で「せり・会所」と呼んだ。会所は10間四方の空き地のことである。この「駿府独特の町割の原理」を究明したのが故若尾俊平氏で、駿府研究者の権威でもあった。

駿府型町割は、若尾俊平氏の研究で全国的に注目された。それまでの城下町の研究では「京型・江戸型・名古屋型(キネ型)」の町割が中心で、駿府城下町の研究が皆無と言えるほど貧弱であったため、「駿府型」という概念すらなかった。ところが昭和58年に発表された同氏の研究では、大御所徳川家康の「駿府城下町」は、日本最初の近世社会に登場した新しい考え方や士農工商の原理に裏打ちされた最も斬新な「城下町」として完成度の高い町の出現であった。しかも天下人・大御所徳川家康の町として。

さらに「せり・会所(かいしょ)」の使途は、その大部分が町々から出る「ごみ捨て場」となり、あるいは「共同便所」などとして、町々の必要に応じて使用することができた合理的な場所(空間)と考えて差し支えないようである。普段はせり(世里(せり))には野菜を栽培したりした。このため火災を防ぐ「火避地」の役目もあった。また道路補修用の砂なども蓄えていた。これは、道路に穴などができるとその砂を利用して穴をふさぐなどの補修用したというものである。

本通りと新通り

本通りは、今川時代から残る通りの名称であったが、家康は駿府改造計画の中で新たに新通りを拓いてここを「東海道」とした。今川時代のメイン・ストリートを敢えて変更し、新しく新通りに重点を置いた。今日のバイパスである。ところが駿府城下町の全体から本通りを見ていくと、「本通り」の価値は別の意味で生かされていた。駿府城下町の町名に付け加えられた「〇丁目」の表示は、必ず本通りを起点にしている。本通りから遠ざかるにしたがって「一・二・三丁目…」と東西に向かって付けられている。

一方、大手町を中心に南に向かって広がる駿府城下町は、必ず大手門から離れるに従って「一・二・三丁目…」と合理的に「丁目」の表示が付けられていた。このため町々の位置はどこからでもすぐにわかる仕組みとなっていた。これは現在も同様である。

駿府用水

駿府城下町の中には、町中を縦横に流れていた用水(小川)があった。駿府名物の一つでもあった。安倍川を水源とするこの用水は、薩摩土手から取水し安倍川のきれいな水(安倍川の水は平成11年の建設省の発表で日本一きれいな川となっている)を城下の隅々まで供給していた。これは飲料水ではなく、駿府城下町の浄化や防火、それに悪水(中水)の処理に役立っていたものである。

主な用水の取水口は、駿府城下町の古絵図にも見られるように「井宮水門・安西水門・一番水門」の三カ所あった。駿府用水の歴史は古い。天保11年4月に発行された「駿府御城御用水鯨池来歴」という木版刷の由緒書が門屋の旧家白鳥家に残されている。これによると、今川時代にさかのぼる名水の歴史がわかる。

「今川家数世用水ニ引かれ猶又、東照宮御遊ならせられ名水なる事を御覧あり、永く駿府の用水ならしむべくその台命によって今に御用水たるる事人のしる所也…」(「駿府御城御用水鯨池来歴」)とあって、この鯨ケ池の名水は今川時代から駿府城下に御用水として利用されていた。「駿府御用水」駿府御用水は、駿府城の濠(ほり)に注ぐ専用の水で「駿府用水」と異なる。安倍川から取水した「用水」に対して「御用水」として区別したのである。「御用水」からみてみよう。鯨ケ池を水源としたこの水は、下村より福田ケ谷・松富・籠上・井宮・安西方面を経て駿府に入る。さらに水は、駿府城の本丸、二の丸、三の丸の濠に落とされるわけだが、水源から濠までの水の流れは厳重に町奉行水道方掛同心によって管理されていた。

一方の「駿府用水」は、先の3カ所から取水し駿府城下を流れていた。流れの末端は田畑の「農業用水」となって利用された。駿府城下を流れる用水は、上流の武士や寺社地域に最初に流れる。特に悪水(汚れた水)を出す職業集団の町は、流路の末端に置かれていた。これは上流で悪水を流されると、川下の町々に今日で言う「公害」が及ぶことからである。

このため「駿府用水」も「駿府御用水」も、ともに水道方掛同心二名が馬に乗って見回りをした。もしごみなどが捨てられていたり、ごみが溜まっていると同心が最寄りの町方に清掃を命じていた。各町には交替で用水の浚渫をする役、浚渫(しゅんせつ)役が置かれていた。古い記録によると、用水に意図的にごみ芥(あくた)などを捨てた者は、ごみ拾いや浚渫作業が待ち受けていた。特に用水を汚した者は、30日間の清掃労働を課せられるといった厳しい条項もある。

駿府の用水は全て開渠(オープン)で、護岸は石積みで出来ており所々にせき止める場所が設けられていた。これは火災時に火元の方向に水を沢山流すための堰(せき)である。特に七間町・人宿町・本通り・上石町付近は、若干地形が高いため水の回り方が遅く火災の初期消火活動が遅れがちであったという。駿府用水はこのように消火活動との関係が深い。また用水は、家々の屋根から大量に流れ出る雨水をこれに合流させ洪水にならない配慮と町の浄化に役立っていた。家々の屋根から落ちる雨水は、すべてこの用水につながっていた。それだけにごみ芥の類いは途中で用水に詰まると問題となるため、駿府町奉行所の管轄で厳重に管理されていた。

用水に流れる生活雑排水は、桝で浄化され用水に落とされた。駿府用水自体も、途中で乱杭を打ったりしてごみを止める仕掛けとなっていた。このように駿府城下町は、とりわけ他所の町々よりも町の浄化に人一倍気を使っている。これは大御所様の住む町としてのプライドと、長い年月の間に培われた厳しい伝統によるものでもある。「駿府広益」〔静岡県立中央図書館蔵〕によると、駿府城下町の各々の町では毎月1回町方の町民が決まった人足を出して用水の清掃作業をすることが義務付けられていた。また町中を流れる用水には、水車小屋が設置されている場所もいくつかあった。

駿府用水の利用はまだあった。真夏の暑い日や埃のたつ日などは、一時的に堰を塞ぎ用水を溢れさせて道に水を適度に染み込ませるという利用方法もあった。ドン・ロドリゴは390年以上も前に駿府城に徳川家康を訪問したとき、駿府城下町がまるで雨が降ったようにしっとりと濡れていたことに驚いている。このことを「駿国雑志」から引用してみよう。

「今、府中町々、皆軒下通り切石をたたみて下水とし、御城御堀入の安倍川上水を分水して流とし、快晴続く時は所々に瀬きりて大道に流しかけ、程よくしめるを見て瀬きりを取り流す。故に水うつの煩いなく、下水甚奇麗也。最便利ありといふべし」とある(「駿国雑志」)。

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