大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所の町・駿府城下町の誕生

家康の「五カ国領有時代」とは

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永禄11年(1568)の武田信玄の駿河侵入に際し、家康公は大井川を境に武田信玄と宿命的な対立を引き起こした。大井川以西の遠江を押さえた家康公と武田信玄との間では、両者の「遠江争奪戦争」が高天神城争奪戦として本格的に始まった。天正3年(1575)には、長篠の合戦で武田が壊滅的打撃を受けると、家康は再び遠江を奪回し駿河支配を有利に進めた。 結局天正10年(1582)3月11日、武田勝頼を天目山に滅ぼした家康は、織田信長から駿河一国を与えられた。その後「三河・遠江・駿河・甲斐」の四カ国の支配者となったが、家康が信濃国も支配することになったのは、織田信長が天正10年に本能寺で倒れたため、信濃国が領主不在となり、家康が代わって領国としたものである。

この時から家康公は、これら五カ国の城下町(政治首都)を岡崎・浜松・駿府と移した。最終的に駿府に落ち着いたのは、天正13年〔1585〕からである。ところが、家康公が広大な領地を支配する大大名へと成長していくと、支配下に置いていたとはいうものの豊臣秀吉はそれを極度に警戒しだした。

家康公が浜松から駿府に来たのは、正式には天正13年7月19日であった。この時の駿府城下とは、果たしてどんな町であったのだろうか。駿府城下といっても城主はおらず、武田・徳川の戦乱の後遺症から立ち直るゆとりもなく、かなり荒れ果てていたと想像される。また当時の記録もほとんどなく、家康公が精力的に駿府城下町を整備し、また新しい城主となるために駿府城を築城したのもこの時のことである。

この間の出来事をわずかながら伝えている「家忠日記」から、家康がどのように駿府城の普請に関わっていたかを見てみよう。

天正十五年 一月 二十六日 駿州普請のため、浜名まで出候
十月 十二日 本城堀普請候
十一月 四日 このくるハ(二の丸)の石かけ候
十六年 三月 二十九日 もち舟(用宗)より才木(材木)とどけ候
五月 十二日 てんしゅのてつだい普請あたり候(天守閣造営はじまる)
十七年 正月 一日 駿府ノ城正旦ノ賀儀例の如ク諸士城ニ登テ大神君ニ謁ス
二日 夜ニ入、駿府ノ城ニ於テ御謡初アリ、松平主殿助家忠城ニ登テ着座ス
廿八日 駿府ノ城経始
廿九日 大神君中泉ニ狩シ給フ
二月十一日 小伝守てつだい普請当たり候
四月十日 普請出来候
五月二十五日 普請出来、普請衆かへり候

この時代の駿府城築城工事は、天正15年(1587)1月26日から始まり、同17年5月25日にほぼ完了した。この時の駿府城の規模は、今川時代の規模も構造もはるかに超えるものであり、新しい駿府の出発ということになる。また家康公の築いた駿府城は、大天守だけでなく小天守も造られていたことが日記からわかる。これも家康公の力量が伝わってくる情報である。

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