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大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の生涯

将軍・徳川家康誕生

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征夷大将軍

関ヶ原の合戦によって天下を掌握した家康は、慶長8年(1603)2月12日に征夷大将軍の座についた。家康62歳である。その日は寒く冷たい朝であり、時折、小雨が降っていた。ところが午前八時ころからにわかに晴れ渡り、将軍の誕生を祝福するかのように太陽が輝き始めたという。

豊臣秀吉が「関白」であったのに対して、家康は「征夷大将軍」の道を選んだ。家康が選択したこの位は、武家にしてみれば伝統的な官職である。しかも絶対的権威の象徴である。ところが秀吉は、天皇を補佐する重役として「関白」の道を選択した。関白と征夷大将軍職とどちらが上席か、これは立場が違うため容易に判断できないが、違いといえば家康の将軍職就任によって豊臣秀頼との関係が微妙に変化したことである。

それまでは正月元旦の年賀のため、豊臣の家臣たちは大坂城の秀頼に年賀拝礼に登っていた。それが新将軍誕生によって、大坂城に年賀のために登城する大名の数が減ったことだ。その代わり江戸城に登城する大名たちは以前よりも増えた。こうしたことを見ると、序列が自ずと関白秀頼から将軍家康へと定まったことになる。

将軍宣下によって家康は、もはや豊臣政権の五大老の一人ではない。その地位から脱し「武家の棟梁」の頂点に立ったことになる。関白は天皇を補佐する朝廷の首座であり、征夷大将軍は朝廷から任ぜられた武門の首座を意味した。征夷大将軍とは、天皇の軍隊として「幕府」を預かる重職だ。このことを想起すると、将軍の配下に位置する諸大名たちにしてみれば、将軍となった家康に呼応するのは当然の理屈ともいえる。

将軍となった家康は、以前にも増して上洛を繰り返したが、これには理由があった。慶長8年(1603)10月18日、一旦伏見城を離れた家康は慶長9年3月から8月までの約半年間を伏見城に滞在した。2年後に息子秀忠が将軍になると、その頻度はさらに高まる。家康が慶長5年(1600)から慶長11年までの6年間、大半を伏見で過ごした理由は、豊臣方への牽制以外の何物でもない。

将軍が家康から秀忠に替っても、大坂の豊臣方との緊迫関係は依然として続き、また朝廷の動きも家康としては気になるところがあった。関ヶ原の戦い後の大名の編成変えを行っても、裏で豊臣に気脈を通じた有力な諸大名が西国を固めていた。これら外様の諸大名たちの静けさが家康には気になる。そうした静けさを潰すため、家康は城造りに専念した。

西国の大名たちに余分な時間を与えないためである。手始めに江戸城を天下普請(今日でいう公共事業)とし、西国の大名たちに工事や作業を命じた。将軍職引退後に大御所となった家康は、今度は駿府城や駿府城下町の建設もこれら外様大名に命じて造らせた。こうなると、西国の大名たちにとっては家康に反撃を挑む余裕などない。家康はそれでもなお天下普請を続けた。まず江戸城の普請から見てみよう。

江戸城建設

慶長8年(1603)将軍宣下の直後に家康は、天下覇府のシンボル江戸城の建築に取り掛かかった。江戸市街地の造成を多くの大名たちに命じた。加賀の前田利長、仙台の伊達政宗、肥後の加藤清正、熊本の細川忠興の外様大名、また譜代大名では結城秀康、松平忠吉、本多忠勝ら東西七十余りの大名たちは、家康の命令で神田山の開削や入江の埋立、更に江戸城域拡張のための敷地確保などを行った。埋立地には江戸の町の元となる町屋が集められ、そこには商工業者が移された。この江戸の街は、世界最大の都市へと拡大するが、このころはまだ完成されていない。

江戸城の拡張は慶長9年(1604)9月からはじまり、西国の29の大名たちは石船で遠くから石材を江戸まで運搬した。江戸城の縄張は築城の名人藤堂高虎が基本設計を行い、実際の普請(土木工事)は池田輝政、福島正則、加藤清正、黒田長政、それに細川忠興の息子忠利らが加わり、江戸城の石垣普請に動員された。

本丸や二の丸や三の丸などの作事(建築工事)は慶長11年(1606)から始まり、同12年(1607)に江戸城天守が完成した。ところが江戸城の工事はこれで全てが完成したわけではない。二代将軍秀忠や三代将軍家光へと引き継がれ、江戸城や江戸の町は更に大きく拡張された。このため家康当時の江戸城と、その後の江戸城は大きく異なる。また江戸の町造りもいっきに完成したものではなく断続的に行われた。やがて大江戸八百八町として、世界一の人口百万都市になるのは、更に年月を経た元禄以降と言われている。

江戸の町は、寛永12年(1635)ころに原形が整ったといってよいだろう。このため江戸の町よりも、大御所の町として造られた「駿府城下町」元和頃 駿府図〔(財)静嘉堂文庫〕元和年間(1615-23)の方が早く完成した。駿府城下町は、天下人徳川家康の城下として「知恵と工夫と美」を追求して完成した。このため駿府城下町は、他の城下町建設のモデルともなった。

江戸の町割は慶長8年(1603)ころから、大名千石につき一人の計算で人夫を出させた。日本橋の橋南から日比谷の入江が埋立られている。「三浦浄心の見聞集」では、「日本六十余州の人夫をよせ、神田山をひき崩して、南の海を四方三十余町埋め立て陸地にし、その上に在家をたてた」とある。それまでは馬場先門辺りまで漁民が住み、入江の海に船が浮かんでいたという。

江戸に赴く西国の大名たちは、江戸に住まいもなく寺院や町屋に民宿して工事に参加したが、やがて大名の土地も分けられ武家屋敷も整備される。大名屋敷がほぼ出揃うのは、三代将軍の寛永期に参勤交代が義務づけられてからであった。江戸の町の原形は寛永期というから、駿府城下町の成立の方が江戸より早かった。

将軍となっても伏見城にいることの多かった慎重居士の家康は、将軍職を息子秀忠に譲り伏見城を引き揚げ駿府に移ったのが慶長12年(1607)である。そのころには駿府城の工事も始まり、天守その他の本丸工事も年内に一部完成している。家康が駿府城に入ったのは同年の7月3日である。

「当代記」によると、「駿府城家屋漸く出来の間、今は大御所移徒なり」とあることから家康は真新しい駿府城に入城したことが理解できる。城は本丸から造るため、一部ではまだ工事が続行していた。

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