大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

薩摩土手

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斬新(ざんしん)な築堤「薩摩(さつま)土手」

薩摩土手は甲斐の武田信玄が築堤した、「信玄堤」の方法を真似たものであった。工法としては、強い川の流れに逆らうことなく幾つもの枝となる堤を造った。その形が、雁(がん)が夜空を飛んでいる形に似ているため「雁行性堰堤(がんこうせいえんてい)」と呼ばれた。この築堤方法は日本が世界に誇る土木技術であったが、明治時代になると逆に西洋方式を真似て改造した薩摩土手は、大正3年(1914)の大洪水によって大災害を引き起こす結果となった。

逆に西洋では、日本の方式を真似たためフランスなどはアルプスの激流を防いだという話が「日本土木技術史」に伝わっていることは皮肉である。江戸時代には、日本は世界に通じる高度な技術を持っていたのである。

薩摩土手について、もう少し詳しく知ろう

薩摩土手の大工事は、慶長11年(1606)ころから家康公は駿府城拡張工事にともない、全国の諸大名を動員し「天下普請」(公共事業)として工事に参加させた。中でも薩摩の島津忠恒(しまづただつね)は、500石積みの船150艘に石や材木を積んで参加しという。その材料で築かれたのが駿府城の外郭を守る薩摩土手であった。

薩摩土手は井宮妙見神社から堤が築かれ、弥勒の下(与九郎新田)まで築かれた。この堤によって、それまで別々に流れていた安倍川と藁科川が一つの流れとなり、安倍川から3箇所の水口を取り入れて新しく誕生した駿府城下町には、安倍川の綺麗な水を水路によって流した。これが駿府用水であり、井宮水門の見事な石積みの水路が発見された。薩摩土手の名前は、天保11年(1840)に書かれた「なこりその記」の中に収められている「駿府独案内(すんぷひとりあんない)」にも登場する。

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