大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所の町・駿府城下町の誕生

駿府城下町造り三奉行

大 中 小

城造りは同時に町造りである。駿府城下町は大江戸が未完成のころに一足早く完成した。地方都市としては異例なほど見事な町であるばかりか、国内でも風格のある町として誕生した。この大事業を成し遂げた責任者が、彦坂九兵衛光正(ひこさかくへいみつまさ)、友野宗善(とものそうぜん)、畔柳寿学(くろやなぎじゅがく)の3名である。彦坂九兵衛と畔柳寿学の2人は駿府町奉行でもあり、また徳川政権の中の重要な土木技術者であった。

友野宗善は今川家御用商人の流れをくむ豪商であり、配下に多くの商工業者を治めていたことから、駿府城下町を造るためには欠かせない重要人物であった。その彼が、駿府城下町に有能な職人を集めたと考えられる。
3人のテクノクラートたちは、「風水の原理」風水の原理に基づき新たに駿府城下町造りのための大規模な工事を実施した。安倍川の大改修と、駿府城下町の町割(都市計画)を手掛けた。同じ町奉行でも畔柳寿学は、なぜか具体的な人物像が見えてこない。ところが彦坂九兵衛光正は、幕府の土木技術集団の中でも生え抜きの技術者である。最近の研究では、彼が家康に技術指導者として抜擢され、測量や地割を得意として担当し駿府城下町の建設に関わったことがわかる。

商工業者の事情に詳しい友野宗善は、駿府城下町に商工業者を誘致するために有力な商工業者を引き抜いた。徳川家康の大御所政治をスムースに行う意味でも、駿府に有能な商工業者を各地から集め、駿府城の大御所家康公に奉仕させることが彼の役目だった。こうした友野宗善の努力は、家康が江戸に初めて町をつくった時に、離散した商工業者の集団を江戸に集め定住させたやり方と同じであった。友野は今川義元時代の今川氏の豪商であったことからも、今川時代の職人集団の中から幅広く商工業者を集めたものと思われる。
この時の商業集団の中では、後の江戸幕府の流通や経済に関わる秤屋などの存在も大きくクローズアップされてくる。また家康自らも、伏見や京都から呼び集めた職人を駿府城下町に彼らの職人町をつくって定住させた。例えば研師や鋳物師、それに運送業としての車町の職人や金座や銀座の事例がある。

先の畔柳寿学にはとかく謎めいた部分もあるが、「駿府政事録」によると慶長16年(1611)に「この日駿府書院を造替せしめらる。畔柳寿学某其奉行たり」とあることや、江尻港に関する工事にも彼は関与した。彼はおそらく建築家であり、また陰陽師(おんみょうじ)をも兼ねた特殊なテクノクラートであったとも考えられる。

畔柳寿学と彦坂九兵衛光正、それに駿府城天守閣を建設した大工頭中井大和守正清(だいくがしらなかいやまとのかみまさきよ)の3人は、家康が駿府城で他界するとただちに久能山に登った。彼らの仕事は、仮殿を造作することである。彼らは、家康が存命中に大いに大切にされていた技術者である。
こうした人々によって完成した駿府城下町とは、果たしてどんな原理原則に添って町造りが実践されたのだろうか。この点について都市つくりの哲学といわれた「風水」の思想から考えてみよう。

古代の中国では大自然の神秘に対する畏敬の念から、特に自然の動きを察知できる人物が人や社会や国家を動かすといわれていた。彼らは黄河流域の水の氾濫を予見したり、また農作物の害から人々を救済するための道教の思想も説いていた。彼らの思想は、やがて都市造りにも導入された。その中でも最も基本的な四つの考え方がある。それは次の「風・水・物体・山」のことである。

  • 一 風 風は空気にもつながり、良い風を取り入れることができる場所
  • 二 水 命の源泉として良質な水が流れ、人と作物に役立つ地のり
  • 三 物体 邪魔な物体を取り除くことを肝要とする
  • 四 山 山は力の源泉と考え良い山が必ずあること

以上四点を基調としながら、それぞれに恵まれた場所を選定することが基本となる。この条件にかなっていれば、その土地は「四神相応(しじんそうおう)の地」ということになり、風水の思想はこれらの条件を満たしながらなおかつ大自然の持つ神秘的な恩恵を受けて都市の繁栄を期待する考え方である。

日本には平安時代頃からこうした考え方が中国から導入されており、古代の都市造りにも応用されていた。しかし日本では、「風水」という言い方でなく「陰陽学」と呼ばれて、家相・墓相などにもその原理が応用された。とりわけ戦国時代には、こうした学者たちが軍師・軍配者・風水師の名前で登場する。

家康公お抱えの代表的陰陽師というと、やはり駿府で活躍した天海僧正であろうか。ところが駿府城下町の風水を誰が見立てたかについては定かでない。この思想から駿府城下町の四神相応の考え方を探ってみよう。

次へ 戻る

ページの先頭へ