大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

駿府キリシタンの光と影

大奥の侍女・ジュリアの信仰と追放

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ジュリアのことをアビラ・ヒロンはこう記した。「(駿府城)大奥の侍女ジュリアも追放し、僅かの漁夫しか住まない無人の島、八丈の島に送った。ジュリアは今ではその島で厳しい労働と貧困に耐えている」。駿府城大奥の侍女として仕えたキリシタンの女性の消息を、いち早くキャッチしていたのには驚く。

ジュリアの出生は明らかでない。秀吉の命令で朝鮮に出兵したキリシタン大名小西行長が、戦乱で苦しむ朝鮮貴族の少女(絶世の美女という)を養女として日本に連れて帰ったとする説が有力だ。この少女がどうして大奥の侍女として、特に駿府城内で生活することになったのかは謎である。おそらく関ケ原の合戦で亡びた小西家の養女であったことから、何らかの縁で駿府城大奥の侍女となった可能性は高い。

「日本キリシタン殉教史」もジュリアのことをこう報告している。ジュリアが外国人の記録に初めて登場したのは、ジョアン・ロドリゲスの「日本年報」であった。それによると、「公方様(徳川家康)の大奥に仕えている侍女の中に数人のキリシタンが居て、前にアグスチノ津の守殿(小西摂津守行長)の夫人に仕えていた高麗生まれの人がその中にいる。彼女の信心と熱意とは、たびたびそれを抑制させねばならないほどで、多くの修道女に劣らないものである。(中略)高徳のこの女性は、昼間は、大奥の仕事で忙しく異教徒たちの中にいるので、夜の大部分を霊的読書と信心に励んでいる。(中略)そのため、誰にも知られないようにうまく隠した小さな礼拝堂を持っている。(中略)またたびたび知人を訪問するという口実で許可を得て、教会に来て告白し聖体を拝領する……うら若い女性で、あのような環境の中で、「茨の中のバラ」(讃美歌)のように純潔で、自分の霊魂を損なうよりも命を捨てる決意を固めている」。

この史料からすれば、ジュリアの出自はやはり朝鮮とみて良いであろう。アロンソ・ムーニョも彼女のことをマニラ管区長にこう報告した。「皇帝の宮廷(駿府城)にいる一女性は、キリシタンたちの間でドーニャ・ジュリアと呼ばれ、信仰深く、慈悲の模範になっている。貧しいキリシタンたちを訪ねては多くの人々に食物を施している。たびたび教会に来て熱心に聖体を拝領している。迫害が始まったことを知ると、教会に来て告解と聖体拝領をした。遺言書や必要な準備をし、所持品を貧しいキリシタンに分け与えた。将軍(家康のことか)が欲求のまま呼び出して侍らせる妾ではないかと思われたので、神父は、はじめ聖体を授けようとしなかった。(するとジュリアは)「もしそんなことがあったら、私はそこから容易に逃げ出せます。それができないようだったら死を選びます」と言ったという。この女性は大奥にあって常にキリシタンとしての態度と、信心を保ち、われわれが同宿を必要としているのを知ると、自分が養子にしていた十二歳の少年を同宿として教会に行かせた」(「日本キリシタン殉教史」)。

家康も当然ジュリアが信者であることを知っていた。キリシタン信者の迫害が駿府で始まった時も、家康は彼女を殺さなかった。とかく言われていることは、改宗させて自分の側室にしようとしていたという説もある。余談だが駿府城内の情報や秘密が、宣教師のあいだに広がって国外に流れた可能性もある。事実宣教師たちも、布教と称しては多くの人々に近づき、また城内の者や出入りの商人を入信させては家康の周辺でスパイ行為をさせていたとしても不思議ではない。

こうなると家康も、もはやキリシタン信者を野放しにしておけない。(このころ駿府城内では、原因不明の出火が続いていたが、キリシタンとの関係はわからない)。

大奥の侍女ジュリアも、このころに駿府の町にある教会に通いビスカイノやソテロなど多くの宣教師とも会っている。慶長18年(1613)のキリシタン禁令によって、ジュリアは最初は大島に島流しとなり、さらに伊豆の孤島(神津島)に流された。慶長19年(1614)のキリシタン年報には、セバスチャン・ウィエイラの記録として、ジュリアが神津島に送られた様子が伝えられている。ウィエイラが果たしてジュリアが流された場所まで連絡を取ることができたかどうかは疑問だ。

ウィエイラの記録は殉教を美化した創作という説もある。また「日本殉教者一覧」の中にジュリアの名前はない。彼女がキリシタン信者として処罰されたのではなく、流刑の罪状を「スパイ容疑」として島流しとなったという説もある。巷間では、ジュリアに心を寄せていた家康が、島流しならいずれ改心して駿府に帰って来ることを期待したとする見方である。ところがジュリアは神津島で、心安らかな信仰生活を続けてそこで亡くなった。

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