大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大航海時代の駿府の家康公

(コラム)家康の夢・幻の川辺城

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慶長11年(1606)3月15日、家康は駿府に戻った。三度目の駿府の下見である。将軍職を引退し大御所として駿府に入った家康は、一切の過去やしがらみに捕われることなく、自由で大胆な発想で駿府を生まれ変わらせる大きな構想を持っていた。

幻の川辺城 その構想は同年10月6日に発表された。それは駿府城を築城する候補地として、意外にも「川辺」と決まった。その場所は、天正期に家康が築いた駿府城の位置でもなく、全く掛け離れた場所であった。「川辺・河野辺」(川辺郷とも)とも呼ばれたその場所は、駿府の南に位置し安倍川や藁科川がきままに流れる水郷のような場所であった。

「当代記」によると、「大御所駿河に至り府中に着き給う。城場の事、今の城より南河野辺と云う所へ移され、来年普請有る可きと也…」とある。家康が川辺にこだわり、何故この場所に新しい城と城下町を築こうとしたのであろうか。それは天下人としての大きな夢と、家康を取り囲むその時代的背景を理解する必要がある。

川辺は河野辺とも書かれ、字の如く川と密接な場所である。そこは安倍川がややもすると乱流する川筋に位置するため、ひとたび大洪水になればたまったものではない。場合によっては、水攻めにされる可能性すらある場所だ。ここに築城するためには、安倍川や藁科川から城を守るためにも堅牢な堤を築き、自由きままに流れていた安倍川を治めなければならない。まさに想像を絶する大工事になることは目に見えていた。そんな場所に、家康があえて計画しようとしたのが「川辺城」である。

川辺に新城を建設しようとした家康の真の目的、それは果たして何だったのだろうか。それは、概ね次のようなことが考えられる。

天下人として安倍川を制する意図

写真安倍川の慢性的洪水を避けるためには、昔の流れを改修することが不可欠である。当時の安倍川は、右図のように今日の静岡平野を勝手に流れていた。

大航海時代に見合った駿府城下町の建設

一本化された安倍川を合理的に利用し、ここに「運河」を造り外国船(当時のガレオン船)を引き込む大きな狙いがあった。完成した運河を利用して駿府城の天守の真下まで世界各地からのガレオン船を接岸させる大きな夢だ。家康のこの時代は、ヨーロッパの大国では地球的規模で船が世界の海を走り回っていた。

「大航海時代」の最中に生まれた家康は、それに見合った駿府城を造ることを誰よりも意識していたと思われる。権力の頂点にあった家康が、このことを見逃すとは考えられない。ましてや、駿府における「家康の国際外交」は、想像以上に深いものがありそれらは全て駿府が舞台であった。

国際化時代に役立つ駿府

家康が川辺にこだわり、川辺に新城を築こうとした根拠はこの大航海時代を抜きにしては考えられない。家康は国際化時代に通じた「城と城下町」をこの川辺の場所に目論んだものといえる。

だれにも拘束されない発想

新しい「城と城下町」、それはいかなるものにも拘束されず、また過去の亡霊やこだわりや権力に支配されることがないもので、全く新しい発想で家康は「駿府」の再生を真剣に考えていたに違いない。

以上が徳川家康が川辺に目論んだ計画の一端と考えられる。川辺に新しく築く「城と城下町」で以上のような目的のもとに、駿府大御所時代をスタートさせたいと家康は考えていた。

新生「川辺城と城下町」を川辺に築こうとする現実的目的は、やはり大航海時代を意識した考え方によるものとしか見当たらない。

ところがである、急流河川「安倍川」の持つ性質を家康は見逃していた。一見水量も少なく穏やかに見える安倍川であるが、慢性的に「洪水」の危険性をはらむ危険な川でもあった。地形的に見ても安倍川の源流は高い。標高2000メートルの高さから、水はいっきに流路50キロを短時間で河口(駿河湾)に注ぐ。このため一旦大雨が降れば予想を絶する大洪水を発生させる可能性があるのも安倍川の宿命であった。

駿府の人々はこの川を「暴れ川」と呼んでいた。このような事情を理解してか、結局家康は川辺への建設を断念した。昔からあった場所(天正期に家康が駿府城を築いた場所)に計画を変更し、従来の場所を更に拡張することで決着した。このことについて、「駿河志料国府別録」は次のように記している。

「慶長十一年三月十五日神君江府を御首途あり。二十日駿州府中の城に着御せられる。当城主内藤豊前守信成を来歳得替あらしめ、神君御退隠の城郭たるべき由にて、四日ここにて御滞座ありて、城郭の内外巡件視し給う。十月六日、神君駿州府中の城に着御せらる。当城を河の辺の地に移し築かるべきの旨御沙汰あり。十一月六日頃日評議をてらされて、駿州府中の城を河のべの地に移さるることをとどめられ、当時城郭を南北へ広く築き出すべきの旨に決す」(「駿河志料国府別録」)。

駿府城が海と連結する夢を捨て切れなかった家康は、清水港から巴川を上って新しく出来た駿府城まで通ずる水路を完成させている。このため、駿府城には水櫓や水路が立派に残っている。「武徳編年集成」(慶長5年)7月の項目にも、家康が清水より沓谷筋まで船が入るように開削を命じたことが記されている。ところが工事が難しく中止した。

十四年十月 家康、駿府城でロドリゴや船長らを引見
十四年十月 家康、駿府城でスペイン船の船長モリーナを引見
十四年十月 家康、フィリピンの新総督に返書
十六年 三月 二十九日 ポルトガル船、長崎で有馬の攻撃を受け沈没
十五年一月 ソテロ、スペイン国王へ家康の協定案を作成(ソテロは、スペイン国王と家康双方の協定案を作成)
十五年五月 ロドリゴは、アダムズの船で田中勝介らと太平洋を越えアカプルコへ旅立ち、九月カリフォルニアに到達
十五年八月 琉球国王、駿府城で家康に拝謁する
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