大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

紺屋町と少将井社〔小梳神社〕と代官屋敷

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小梳神社 JR静岡駅から徒歩約5分パルコ前

小梳神社紺屋町は「こんやまち」とも呼ばれ、慶長期に染物師が居住したことに由来する。つまり紺屋が立ち並んでいたからである。この町には少将井社という社(やしろ)があり、今川家の崇敬を集めた神社であった。家康公が駿府の今川氏の人質として来た時、最初にこの社に立寄り、御服を改め御武運長久の御祈願をしたことで有名である。それが現在の小梳神社で、この神社の歴史は古く延喜式神名帳(じんみょうちょう)にも登場する。
  元来は駿府城内に寛永8年〔1631〕まであったが、駿河大納言が駿府内から新谷(しんがい)町(ちょう)に移したという。当時は駿府城三ノ丸の城代屋敷〔青葉小学校のあった場所〕に鎮座していた。更に延宝3年〔1675〕には、新谷町から今の場所に移転され、新谷町は小梳神社神主の新谷氏の宅地となった。この町は少将の町とも呼ばれていた。小梳神社は紺屋町のシンボルとして栄え、祭礼には名物の山車が駿府町中を回って盛大な神事が江戸時代には一年おきに行われたという。
  神社の近くには駿府代官屋敷があって、慶長12年〔1607〕に畔柳寿学が代官としてこの町に住んだのがはじまりという。小梳神社の裏手には、地方から集められた米を保管する米蔵が立ち並んでいた。また代官所付近には、御用茶として献上された足久保茶を保管する御茶小屋が近世初頭から正徳年間〔1711-16〕まであった。これは大御所家康公の御用茶として管理されたもので、新谷久悦と呼ばれた茶師が家康公の御茶会を主催していた人物で小梳神社の神職でもあったともいう。
  新谷久悦は、本名を水野久兵衛と云い家康公の祖母と血縁であった。家康公没後の正徳年間、この御茶小屋も廃止された。

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