大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

久能山城

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久能山東照宮 JR静岡駅から日本平線バス約35分終点下車、ロープウエイ5分。または久能山線バス約40分終点下車、石段徒歩約20分。

久能山城久能山東照宮のある現在の久能の山には、武田信玄が駿河の今川氏を攻略するまで天台宗久能寺と呼ばれ、駿河国内でもとりわけ歴史のある大きな観音信仰の寺として存在していた。西行法師も訪れ、正に東国を代表する山岳信仰の寺であった。ところが城郭〔山城〕を築くために絶好な場所であったため、武田信玄は永禄11年〔1568〕駿河の今川氏を攻め滅ばすと、ここに「久能山城」を築城した。寺は清水区村松に強制移転させた。これが現存する鉄舟寺である。
 武田信玄は久能の山に注目し、この年〔1568〕庵原弥平衛に案内させ、久能の山に登り久能寺の観音堂や坊を追い出して、馬場美濃守・山県三郎兵衛の二人に縄張を命じて山城〔久能山城〕を築城させた。こうして久能山城は、断崖絶壁に囲まれた難攻不落の山城として完成した。城代として、今福浄閑斎を置いた。
 ところが武田勝頼没落の後に、久能山城も戦わずして落城した。その後中村一氏が、家康公の代わりに駿府城主となったが、要害の地として再び山城として守りを強化したのは家康公である。慶長12年〔1607〕家康公が大御所として駿府に来ると、久能山城は堅固なる山城として本多上野介が守備に回った。この時、元々この山に住んでいた観音の衆徒たちは、再び観音霊場の寺として再建することを家康公に願い出た。しかし家康公は、村松に移転していた久能寺に寺領を与えて保護するに留まったという。
 久能の山の歴史は、武田信玄が山城を築城し、後に久能山東照宮が誕生して今日に至る以上に、ここには長い久能寺の歴史があったことを思い出して欲しいものである。旧久能寺からで伝わる寺宝として、国宝久能寺経や僧侶が使用する錫杖も国宝として東京国立博物館に寄託されている。

久能山東照宮と家康公

久能山東照宮には、家康公関連の史話と史跡が凝縮している。いわば、家康公のメッカ である。家康公は元和2年(1616)4月17日、駿府城内で75歳で他界すると、遺言によって遺体はその日の内に久能山に運ばれ埋葬された。現在の重要文化財の社殿は、二代将軍秀忠の命によって、徳川頼宣が総奉行となり大工中井大和守によって同年5月に着工し翌年の12月に完成した。実に1年7ヶ月で、見事な現在の社殿ができたのである。
  同3年3月9日には、勅使中御門中納言尚長が参詣し、同じく12月21日には、勅使万里小路孝房らが参詣している。この折に、東照大権現の神号を賜っている。久能山東照宮と称するようになったのは、正保2年11月3日の宮号の宣下からであった。東照宮の宮号の宣下を天皇より受けるため上京したのは、江戸の高家今川家であった。

重要文化財の社殿

久能山東照宮五重塔〔イメージ図〕(渡辺重明作)久能山東照宮は、神廟〔家康公の墓所〕・社殿〔これは権現造りといわれる形式で、本殿、石の間、拝殿の三つが連結している〕・神庫・神楽殿・鼓殿・その他の諸建物が国の重要文化財であり、久能山全神域が国の史跡に指定されている。このため石段参道も国の重要文化財である。久能山東照宮の本殿には、高欄付の階段の上に三つの扉があり、正面に家康公、左右に織田信長と豊臣秀吉を祀っている。いずれの建物も、豪華絢爛を極めている。
 ところが明治初年の神仏分離令によって、寛永年間に松平豊前守勝政が造営した見事な五重塔も、仏教的な色彩のある諸施として解体され木材や金具が売却された。このため有名な五重塔も今はなく、塔跡だけが残されている。

久能山東照宮の宝物

家康公愛刀の三池の刀
久能山東照宮には、三池の刀と呼ばれている名刀がある。九州三池の名工〔典太光世〕 の作と伝えられ、家康公の愛刀で死ぬ二日前に試し切りをさせ、よく切れると聞いて安心 し、これを神体としてまつれと遺言されたものである。久能山東照宮では、信仰上からも、 一番大切な刀として扱われている。  
 東照宮には、歴代将軍の武具並びに装束その他の遺品が数多く保存されている。

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