大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

華陽院門前町

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華陽院 葵区鷹匠2-24-18 JR静岡駅から徒歩10分

華陽院(市姫お墓)家康公は幼名を竹千代と呼ばれていた。竹千代の人質時代〔8-19歳〕には、華陽院近くに竹千代の祖母(源応尼)が暮らし、三歳で母と生き別れた竹千代を親代わりとして面倒をみていものである。華陽院は最初は智源院と呼ばれていたが、源応尼が亡くなると家康公は50年の法要を営み、源応尼の法名「華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼」から、寺の名を「玉桂山華陽院府中寺」と改めている。それが現在の華陽院である。
 祖母源応尼は竹千代の生母の母親で、竹千代の付添人として駿府に滞在していた経緯から、竹千代もこの寺の住職(智短和尚)から学問を学んでいたといわれている。また家康公と側室との間に出来た娘〔市姫〕は、慶長15年(1610)2月12日に7歳で亡くなると、家康公は祖母の葬られたこの寺に市姫を懇ろに葬った。
 江戸時代の華陽院の境内は広く、寺に面した東海道の町を華陽院門前町と呼んで親しまれていた。ここは横田領分であったが、家康公の祖母源応尼の菩提寺〔華陽院〕ができたことから、華陽院門前町として一丁を形成したという。花陽院は華陽院とも書く。祖母源応尼は家康公〔幼名竹千代〕が今川家に人質として天文20年〔1551〕駿府に送られると、孫である竹千代の身の回りの世話をするため、寺の近くに庵室を設けていた。竹千代は岡崎を離れ、人質として寂しい生活を余儀なくされていたが、祖母源応尼の親身の愛情を注がれ心を和ませられたという。 源応尼は永禄3年5月6日に駿府で亡くなるが、その時に家康公は義元の上洛軍の先方隊として桶狭間に向かっていた。その直後に今川義元が桶狭間で戦死すると、家康公は戦場から自国の岡崎に帰国し、独立した戦国大名として自立した。このため敵国となった駿府に戻ることが出来ず、祖母の葬儀にも参加できなかった。葬儀は知源院で行われ、家康公は墓の傍らには三河松を植えさせたという。 「華陽院由緒書」によると、寺領30石、境内地四千三百坪あった。同由緒書にも、住職知短上人からも家康公は人質時代に手習いの指導を受けていたという。

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