大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

 照久寺〔現宝台院別院〕

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照久寺〔現宝台院別院〕 静岡駅から久能山線バス約40分、久能局前下車すぐ

榊原照久の墓

久能山の参道に向かって左側を進むと、柳沢川という小さな川が流れている。朱色に飾られた橋を渡ると右側に大きなお寺がある。昔は照久寺と呼ばれた。現在は静岡市葵区常盤町にある宝台院の別院となっている。この寺には、天正10年〔1582〕以後、久能山城を守った榊原照久の墓がある。   元和2年〔1616〕4月17日、家康公が駿府城で薨去すると、二代将軍秀忠は直ちに久能山にお宮を造営させた。作事奉行は駿府城天守と同じ中井大和守正清であり、初代の神主に秀忠は榊原照久を命じた。元来この土地は堅固な山城であったが、家康公の遺言によってここに埋葬されたのである。以後榊原家は江戸時代を通じ、歴代の当主が久能山を守る総門番として任務を務め久能山警備に当たっていた。照久寺〔元宝台院別院〕と照久の墓  特に照久は家康公と何時までもお供をする気持ちから、没すると久能の山里に墓標を作らせ「自分が死んだら墓石を久能山東照宮の家康公に向かって建てよ」と遺言した。照久は正保3年〔1648〕8月に63歳で没した。家康公没後の30年後のことであった。享年63歳であったことから、家康公が薨去したときには、照久は33歳だったことになる。寛文4年〔1664〕、照久の息子照清が照久寺を建立してから榊原歴代の菩提寺として今日に至っている。この寺は家康公と同じ宗派の浄土宗の宝台院と関係していたことから、現在は照久寺は宝台院別院となっている。

閑話休題

家康公の御遺体
  元和2年4月17日、家康公が75歳で他界されると、遺命によって遺骸は久能山に埋葬された。仮殿を造営して遷座式を終えた。そして1年後、立派な社殿を造営することになった。家康公の神霊は1年後、下野国日光山に改葬された。遷霊の行列はすこぶる盛観を極め日光山に向かったという。これは天海僧正が絶大な影響力を行使していたためと伝えられている。家康公の御遺体は日光山にあるのか、それとも久能山にあるのか、とても興味を引かれるところである。  このことについて、天海僧正は次のような謎めいた歌を詠んでいる。    あればある無ければなしとするがなる くのなき神の宮うつしかな 神様として祀られている家康公の亡骸は、霊位〔御霊〕だけを移したものだろうと思われ る。〔清水の史話と伝説〕

紀州街道と久能街道
家康公の祀られている久能山参詣道として二つある。一つが東海道江尻から分かれるわ き道で、久能山東照宮を経由して駿府城下町の八幡で合流する道、これが「久能街道」で ある。一方の道は、紀州宰相頼宣が用い、安倍川尻の海岸の近道から久能山東照宮に参詣する道で「紀州街道」としてその名が残っているものである。ちなみに久能街道は、古代からの名称で有度山山麓に久能寺があったことから呼ばれていたものである。

閑話休題

瀬名館と瀬名姫誕生地〔家康の正室となった瀬名姫〕
瀬名氏三代目の氏俊の弟氏広は、今川氏の重臣である関口氏の養子として関口刑部親永と名乗り、今川義元の妹を妻として持舟〔用宗〕城主となった。氏広が持舟城主に抜擢される前は瀬名館に住み、ここで女子が誕生した。瀬名館で誕生したことから瀬名姫と呼ばれ、後に家康の正妻となった。 瀬名氏略系図(『長尾川流域のふるさと昔ばなし』より)美人として誉れ高く、今川・徳川・織田の戦国乱世の運命に翻弄された悲劇の築山御前その人である。家康は彼女との間に生まれた信康を政略結婚のため織田信長の娘〔徳姫〕と結婚させたが、徳姫が父織田信長に宛てた手紙に、正室築山御前が武田と通じているなどと書いたことから、織田信長は疑いをつのらせ、信康と築山御前を処罰することにした。
  信康は遠州二俣城で自害した。不思議なことに「瀬名氏」の先祖は今川貞世〔後に了俊〕で、一時期の晩年に瀬名に住んだことが「瀬名氏系図」に記されている。その五代後の瀬名一秀が今川氏親(義元の父)の後見人として二俣城から移り住み正式に瀬名氏を名乗って氏親を助けた。歴史とは不思議な因縁でつながっているものである。瀬名館跡〔現在は〕の実態はない。

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