大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

安西と稚児橋

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安西と稚児橋 現在の安西橋付近・安西橋が目当て

地内に「建穂口」と呼ばれる場所があり、家康公は駿府大御所時代から建穂寺の稚児を浅間神社に迎えて廿日会祭〔廿日会祭そのものは昔からあった〕の重要な稚児行列〔おねり〕と稚児の舞を舞楽殿で演じ、駿府を代表する春のお祭りとなった。この稚児の神事を浅間神社社殿で奉納するために、家康公は建穂寺学頭に7度半もお願いに参上しようやく許可されたという。家康公はそのお礼のため、建穂寺から安倍川までの道を「稚児道」として寄贈し、破格の待遇で稚児と建穂寺の役僧〔稚児さんと駿府に出向いた僧侶〕をお迎えした。
 建穂寺からの稚児と建穂寺の役僧を、駿府の町人たちは安倍川左岸の安西で到着を待ち構えて歓迎した。稚児一行が安倍川を川越しで到着した場所、そこが「建穂口」と呼ばれている〔安西五丁目地内〕。こうして浅間神社の廿日会祭は、武家と駿府町民が一体となってお祭りに参加した駿府最大の盛儀として行われていたのである。また、「祭りはどこだ、安西五丁目〔建穂口〕・・・」といわれる程有名な祭りの合言葉が、現在も語り継がれている。
その後安倍川に橋が架けられると、その橋を稚児橋と呼んだ。しかし、現在は安西橋と呼んでいる。

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